第28話 物語と善悪

 物語は倫理的にどこまで正しくなければならないのか。創作技法上、物語で悪はどのように扱われるのが好ましいのか。その問題を論じます。

 例えば勧善懲悪。勧善懲悪ものは、とあるテレビ時代劇シリーズですでにやり尽くされた感があります。それでも、物語に深みが無いとの批判はあるものの、勧善懲悪ものは未だに広く好まれています。昔も今も、善を好む傾向が世に普遍的に存在しているのは紛れもない事実です。そうでなければ、そもそも自律的な生活共同体としての社会など成立しません。

 善悪に関する読者の許容範囲は善の側に傾いています。それならば、悪は悪役にしかなれないのか。悪の主人公は存在し得ないのか。そんなことはありません。ただし、そのような主人公を描き、多くの読者に受け入れてもらうためには、どうしても必須となる作業があります。悪にも悪なりの事情がある。もしくは、悪にも悪なりの理屈がある。それをきちんと物語に織り込まなければなりません。

 例えば、北野武監督の映画「アウトレイジ」。そのキャッチコピーは「登場人物、全員悪人」。内容は世界を股に掛けた暴力団の抗争。

 例えば、すでに紹介した神林長平作「敵は海賊」シリーズの宇宙海賊ヨウメイ。

 例えば、北条司作「シティーハンター」。主人公たちは大量の武器を所持し、好き勝手に使用し、時として敵の殺害にまで至る。つまり極めて違法性の高い私刑。

 それらの作品には善と悪の混在具合に差があります。

 「アウトレイジ」では、暴力団員やギャングが独自の理屈に基づいてひたすら殺し合うだけ。つまり悪と悪の戦い。

 「敵は海賊」のヨウメイ自身は純粋な悪ではあっても、その組織はもはや単純な暴力集団ではなく巨大コンツェルン。宇宙規模の経済活動を行なっており、実質的に多くの市民の生活を支えている。

 「シティーハンター」は言わずと知れた、手段は悪でも目的は善。

 それらの作品に共通しているのは、悪の事情や理屈や状況がきちんと提示されているという点です。提示は主人公の悪に見合う水準のものでなければなりません。些細な事情や理屈では不十分です。読者に悪を受け入れてもらうためには説得力が不可欠です。

 物語における悪として挙げることが出来るのは暴力だけではありません。例えば背徳もの。不倫、恋愛における強奪や裏切り、いくら何でもそれは不味かろうという大人と子供の性愛など。

 それらのジャンルでは、状況や事態の推移を論理的に詳細に説明することは稀です。それらの行動は感情や欲求や衝動に基づくものなので、説明しない方がもっともらしいのです。その代わりに劇的なバッドエンドを迎えることが多い。そうしないと、読者の多くは納得しません。読者からの批判は不可避です。悪側に有利な結末を望む読者もいるにはいます。とことん悪を極めてほしかったと。しかし、その要望はやはり少数派でしょう。

 実を言えば、未刊作品にそこまでの堂々たる悪を見たことはありません。頻繁に見かけるのは陳腐な悪と意図せざる悪。それらは創作上の失敗と捉えなければなりません。

 例えば、子供時代に受けたいじめへの復讐を動機として、悪の秘密結社の首領が世界征服を目論む。何と陳腐な悪。子供騙しとしか言いようがありません。世界を相手にするのなら、せめて世界規模の社会構造のひずみ程度はぶち上げなければ、子供以外の読者は納得しません。いっそのこと、何も説明せずに狂人として描き切った方がましです。

 例えば、シリアスものにおける軽度の悪。実はスリや万引きなどの盗みを働いたことがあるとの登場人物の告白。その種の犯罪であれば、いくらでも償いようがあります。気の好い奴だから。そんな陳腐な理由で簡単に認めてしまったら、読者は作者の倫理観まで疑ってしまいます。認めるのなら、せめてすでに何らかの償いは済ませてあることにしましょう。もしくは、疑いつつも何らかの事情で認め、後に事件が発生するという設定にしましょう。

 例えば不倫もの。なぜそんなことをしているのか。なぜそんなことになってしまったのか。一々理屈をつけるのは、作者のためらいであり照れです。作者自身の経験と言い訳かと疑われてしまいます。陳腐な言い訳などはせずに、作者自身が不倫にのめり込んだ気分になって突き進み、最後は盛大な拍手と嘲笑を浴びながら華々しく惨めに没落しましょう。ただし、どこかで見聞きした実話を安易に小説化してはいけません。名誉棄損の問題が発生し得ます。また、わいせつ関連の法に触れないよう注意しましょう。

 次は意図せざる悪。つまり、読者はすぐに気付くのだけれども、作者だけは気が付かない。そんな悪です。

 例えば、主人公は敵対的な追跡者の存在を懸念しながら街中を歩いている。そして先ほどから、見知らぬ一般市民が後ろを歩いている。やられる前にやってしまおう。主人公はそう決断し、突然背後の者に襲い掛かって打ち倒し、追撃を受ける前に走り去る。

 作者は主人公に正義があると信じています。しかし、第三者の客観的な視点からは、主人公は極めて凶暴な狂人以外の何者でもありません。作者がその後どれだけ良い話風に物語を進めても、それに没入できるのは騙されやすい子供だけです。

 要するに、確認作業が欠落しているのです。背後の者が追跡者の一味であるかどうかの。頭が正常なら、尾行はまずは撒いてみるものです。作者自身が物語に没入してしまうと、その種の失敗が続出します。

 さらには別の例。主人公が登場人物のことを思って何らかの行動を起こす。もしくは逆に登場人物が主人公のことを思って。しかし客観的に見ると、その行動は間違っている。それどころか、どちらかと言えば善ではなく悪に分類されるべき行動である。

 昔から良く目にするのは、「あの子が好きなんだろう? あの子には彼氏がいる? そんなの関係ないよ。告白しろよ」という展開。これは他者の幸福を意図的に壊すことによって自身が幸福になろうとする行為です。そのため、この種の展開を嫌悪する読者はかなり多く、この種の出来事が現実に起きたら、法に触れない範囲であれば報復が黙認されることもしばしばです。助言者や実行者の対人関係が破壊されることも珍しくありません。

 他国には「自分がやればロマンス、他人がやれば不倫」との皮肉な慣用句があるそうです。その構図に気付かずに作者が書いているのなら、それは意図せざる悪です。ただし、その種の倫理の見極めは未成年の作者には難しいかも知れません。執筆の際には、周囲の大人に意見を求めることも大切です。それとなく訊いてみる程度で良いのです。

 また、最近になって良く目にするようになったのは、浅薄な蘊蓄を垂れながら陳腐な忠告をする登場人物。その忠告は善悪の意味でのグレーゾーン、もしくは軽度の悪の領域にある。そんな作品が出来上がってしまう原因は大抵、作者が作中人物を人間ではなく駒として扱い、事前のストーリー設定に沿って無理に動かしていることにあります。その種の執筆法では、「登場人物、全員サイコパス」となってしまいます。

 ここまでのことを要約すると、次のようになります。物語に悪が含まれるのは普通のことです。しかし一般的には、読者は善を好み、悪には共感しません。悪を悪として扱うのではなく、悪への没入を求めるのなら、それに見合う説明を行なわなければなりません。もしくは、悪にのめり込んでいく熱量を見せ付けて読者を圧倒しなければなりません。また、物語への悪の混入は全て作者の意図に基づくものでなければなりません。

 次の論題は、世の不正を問い、作者自身の正義の概念を小説の形で世に広めようとする行為についてです。この件は一部の者のみに関係する話です。

 エモーショナルアークの節でも触れましたが、最初から読者の共感を得ることが可能となるのは、多くの読者が共通に抱いている感情を刺激した場合だけです。その種の感情に該当するのは例えば、現実の社会に遍在する不正や不義や理不尽に対する不満や怒りなどです。

 つまり、作者の周囲だけで起きている不正や不義や理不尽、作者だけが抱いている不満や怒りでは、多くの読者の共感を喚起できないのです。それでも主張を続けたいのなら、二つの手があります。

 一つ目。眼前の不正や不義や理不尽から、社会全体の問題と認識できるような高度な普遍性を見出せば、主張に耳を貸してくれる読者もそれなりに出てくることでしょう。

 二つ目。そもそも小説ではなく、ノンフィクションやルポルタージュの形式で世に問うてみてはどうでしょう。ただしその場合には、法的な問題に十分に注意を払いましょう。

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物語の小説化技法の詳説 種田和孝 @danara163

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