第22話 伏線

 伏線は、物語内の後の出来事を暗示的に予告する記述です。後の出来事に関する実際の記述は伏線の回収と呼ばれます。伏線は予告ですから後方参照の一種です。回収は伏線を思い起こさせるのですから前方参照の一種です。

 後方参照の節で解説した通り、露骨で無意味なネタバレは興ざめです。しかし、後の出来事を明示的に予告する「神のお告げ」や「フラッシュフォワード」とは異なり、伏線はあくまでも暗示するだけです。そのため、伏線は興醒めなネタバレには該当しません。

 読者を物語に引き込むためには、物語を実直に丹念に描写していくことが第一です。それに加えて伏線。伏線は没入の切っ掛けの一つとなり得ます。伏線を提示し、「この意味深長な記述は何だ? この先で何かが起きるのか?」と読者の興味を引く。回収の場面では、「ああ。そういうことだったのか」と読者を納得させる。それが理想です。

 つまり、伏線は伏線と認識されなければ意味がありません。かと言って、後の内容があからさまに予測できてしまうようでは、やり過ぎです。前方参照の節で伏線のことを小細工と呼びましたが、伏線は小細工であることが大切なのです。

 どの程度のことをどのように記述するのが適切なのか。その問題は極めて難しく、作者の執筆力だけでなく読者の読解力にも依存します。

 例としてバルザック作「サラジーヌ」を採り上げてみましょう。千八百年代前半に出版された小説。物語の舞台は同じく千八百年代前半のフランス、千七百年代終盤のフランス革命を経て、貴族階級の崩壊と衰退が進んでいた頃。主人公は貴族階級の女に取り入ろうとして法螺話を語る。そんな作品です。

 文庫本にして約八十ページの中編ですが、その冒頭、数ページ目に次のような描写があります。ある日、とある伯爵家で舞踏会が開かれる。その場で伯爵家の娘が歌手張りの歌唱を披露し喝采を浴びる。この時点で私は次のような連想をしました。ただし、あくまでも連想であって、推測と呼べる水準の論理的で明瞭な認識ではありません。

 当時、歌手や役者や踊り子などは、現代風に言うと芸術家ではなく芸人の扱いを受けていた。時代の人権意識は低く、少年歌手は美声を維持するために変声期を迎える前に去勢されることもあった。芸人として売れるためには有力者の後押しも必要だった。上流階級であるはずの伯爵家の娘が喝采を浴びるほどの歌唱を披露する。この伯爵家はいわくつきなのかも知れない。

 この連想の正誤はともかく、小説を読み進めていくと案の定です。連想した事柄が次から次に出てくる。つまり、歌唱の描写は私にとっては伏線だったのです。

 ここで、私にとってはと書きました。私は二百年後の読者です。当時に関する正確な知識も生々しい記憶も持ち合わせていません。ですから、正誤不明の連想の水準にとどまったのです。一方、当時の読者にとっては勝手知ったる現実世界。伏線ではなく話の枕のように受け取ったに違いありません。当時のことに関する読解力は、私よりも当時の読者の方が上。その差が現れてしまっているのです。

 伏線は明示ではなく暗示。加減の難しい創作技法ですが、追究するに値します。何も「サラジーヌ」に見られるような難しい暗示を考える必要はありません。例えば、接点の無さそうな二人の登場人物。その口調の特徴的な部分が全く同じ。これは、実は二人が日常的に頻繁に言葉を交わしていることを暗示しています。その程度の小細工で良いのです。

 最後に少しだけ付け加えておきます。伏線の回収の場面で「ん? あの思わせ振りな記述は嘘だったのか?」と読者を裏切る。そんな伏線もあり得るのですが、回りくどくて小賢しいと捉える読者も出てくることでしょう。

 このような伏線を目にすることによって、読者は現実世界の理不尽さや非論理性をも再認識することになるであろう。そんな効用を文学者や評論家や一部の小説家がいくら謳いあげたところで、さすがにそれは分を超えたハードパターナリズム。読者を教化してやろうと高飛車に意気込んでも、読者を失って歯ぎしりしながらむせび泣くのが落ちです。

 知恵を絞って小説の構造にひねりを加える。やりたければやれば良いとは思うのですが、物語を楽しむことと小説を楽しむことをどんどん乖離させてしまうのではないだろうか。私はそんな疑問を強く感じます。

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