いっそ見えない世界なら

 いっそ、この目が見えなければいいと思う……

 だって、そしたら人の幸せなんて見なくて済むだろう?

 俺、生まれてから今まで、一度もいいことがなかったんだ。

 本当に、俺には何もなかった。

 だってさ、普通、生まれてすぐの子供には親ってのがいるだろう?

 父親と母親の二人がいて、守ってもらって、

 可愛がってもらったりするんだろう?

 愛してだって、もらうんじゃないのかい?

 でも、俺の親、そんなことはちっともしてくれなかった。

 俺、小さな頃いつも泣いてた。

 よく泣いてた。

 今なら、何であのとき泣いてたかって、よくわかるんだけど、

あの頃は説明できなくて、泣くしかなかった。

 そしたら、俺の親らしきヤツがやってきて、俺を殴った。

 ビックリして俺は泣きやんだ。

 何度もそういうことがあった。

 俺は、泣くと痛い目に遭うんだとずっと思っていた。


 でも、別に俺が泣かなくなっても、ヤツら、俺をよく殴ったな。

 意味がわかんなかった。

 俺はいるだけで殴られた。

 でも、違うな。

 俺が悪かったんだ。

 人の物が欲しいと言ったり、あそこに行きたいと駄々こねたり、忙しい親掴まえて、他んちの子供みたいに、親に甘えようとしたから……

 その頃では少しわかってきたんだよ。

 俺んちは、他と違うんだって。


 学校で、昔の俺みたいによく泣くヤツがいた。

 少しでもイヤなことがあれば、しょっちゅう泣いてる。

 ある日、俺は唐突にそいつの頭を後ろから殴った。

 みんなの見てる前で、思いっきり殴った。

 明らかに俺が悪かった。

 そして、ヤツは火がついたみたいに大声で泣き出した。

 誰かが先生を呼んできた。

 先生は俺を怒鳴りつけて、まるで俺を悪魔でも見るような目で見つめた。

 そして、ヤツは先生の胸に抱きついて泣き続けた。


 俺は、だんだん人の言うことなんてどうでもいいと思うようになった。

 親が俺を怒鳴りつけようが、教師が俺を怒鳴りつけようが、一緒だった。

 俺は申し訳ない顔をするのが大層うまくなったし、謝るのが上手くなった。

 だって、全ては言葉一つだ。

 俺が悪いです。全ては俺のせいです。

 ごめんなさい。反省してます。

 これで頭の一つも下げればそこそこうまくいく。

 他のヤツが俺の真似してもうまくいかないのは、演技力ってものがないからだ。


 そんなことを繰り返して、大学まで進んだ。

 その頃には、俺のそばには親はいなかった。

 親は既に別れていた。

 俺はどっちにもついて行きたくなかった。

 二人は俺を引き取るのを嫌がって相当もめた。

 しかも、露骨に俺の目の前で言い合った。

 でも、そんな言い争いの言葉すら、俺はどうでもよかった。

 もう、人の言葉を聞いても、何も感じなくなっていた。


 俺は男親に引き取られたが、ヤツは俺に狭くてボロいアパートをあてがうと、姿を消した。

 大学の費用はバイトでかせいだ。大学の授業以外は全てバイトに費やした。

 下らなくて、最低最悪な仕事ばかりした。


 そして今……

 俺は信号が青になるのを待ちながら、いっそこの目が見えなければいいと思っている。

 この目が見えず、いっそ耳が聞こえなければいいと思う。

 俺の見てきた最低な人間。

 俺の聞いてきた最低な言葉。

 もううんざりだった。

 そんなものに振り回されるのはご免だった。

 だから、遠い昔に決めたんだ。

 まだ幼い俺は、まだよくわかりもしない「心」ってやつを閉ざすことにした。

 それからずっと、「心」は無表情のままだった。

 昔から培った悪知恵で、演技だけはうまかった。

 「心」で思いもしない言葉も吐け、それに見合った顔も作れた。


 今の俺は嘘は万能だと思っている。

 嘘が上手ければ上手いほど、人間の欲望は簡単に満たされる。

 俺の言葉が嘘かどうかなんて、他人にはどうでもいいことだ。


 ただ、この世には俺の嘘が嘘であると明らかに知っている人間がいる。

 それが、今ここで信号待ちをしている俺自身。

 人の幸せなんて見たくなかった。

 だから、幸せからはほど遠い世界に行こうとする。


 でもさ……でも、本当はとても知りたいんだ!

 その幸せってやつを!

 それはどんな感じなんだい?

 あったかいのか?

 幸せになれば「心」があったかくなるか?

 いや、待て、「心」があったかくなるってどんな感じだい?

 「心」ってさ、いったいどこにあるんだ?

 俺、確か昔、ずっと昔、それがある場所を漠然と知ってたよな?

 それで、それを閉ざせば、全ての苦痛、痛みから解放されるって、無意識に知ってたんだよ。

 でも、あれからずっと、その「心」ってやつを閉ざし続けて、

いつしか、その心があった場所さえ、忘れちまってる……

 「心」って何だよ?

 それがあるのとないのとどう違うんだい?

 「心がこもってるだの、心がないだの」

 あいつらがそうやって口にする心って何だよ!


 手でつかめる物か?

 あんたにもあるのか?

 俺に見せれるような物かい?


 わからないよ。

 「心」がどこにいったのかなんて、俺にはわからない。

 幸せを知らない、そんな俺は不幸か?


 信号が変わり、この横断歩道を渡れと命令する俺は誰だ?

 俺の前を歩く亡霊みたいな人間。

 俺を慌てて追い越す何かに取り憑かれたみたいな女。

 こいつらに聞けば、「心」の在処を教えてくれるのか?

 それとも、こいつらも俺と一緒か?


 誰か……

 俺は、俺以外の全てが幸せに見える。

 世界は、俺以外の全てを必要としている。

 だから、俺は、いらないんだな……


 俺がいなくなっても、誰も泣かないか?

 俺の嘘を見抜けなかった人間に囲まれて……

 俺がいなくなって泣くヤツに、意味あるのか?


 いっそ、このまま……

 このまま、朝を迎えなければ……

 もう、明日さえ来なければ……

 それが俺にとっての、幸せじゃないのか……




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