今宵エンディングを迎える人
さっきからその男の前を小さな子供がうろうろと行ったり来たりしていた。
男がたまに顔を上げて前を向くと——こちらを見てる気がする。
男は街路灯の横で、塗装の剥がれかけた壁にもたれて足を道路に投げ出していた。ぐったりとしていて、頭を持ち上げるのも苦しいという感じだった。実際、そうなのだ。男は苦しくて、死にそうになっていた。前をうろつく子供など、どうでもいいと思っていた。……目がかすむ。
子供はだんだん男に近づいてきた。しまいには、そのすぐ横に来て男の顔を覗き込んできた。
男は意外にも目を見開く。
……女の子か?
遠目に、子供はズボンを履いていたし、男の子ではないかと思っていたのだ。
どんぐり眼の黒い瞳。くっきりした眉にそばかす顔、不揃いに短く刈られた髪。間近に顔だけを見ると少年の印象が強いのだが、上着の中に着込んだブラウス、そのレース飾りがついた大きな襟は、少年にしてはあまりにも華やか過ぎた。
「何か用か?」
男はうっとうしいそうにそう言った。
「……泣いてた」
それは、やはり少女の声だった。
「泣く? ……オレがか?」
「さっき泣いてたよ」
「……そうか。……さっきなら、泣いてたかもしれないな」
男は重い首を持ち上げて、頭を壁に預けた。
何日かぶりに空を見上げた。オレンジの空だ。夕暮れだ。
「わたし、大人が泣くの初めて見たよ」
空を見る男の視界に、また少女の顔が入ってきた。
「そうかい。じゃあ、オレはダメな大人だな」
「たぶん、そうだと思うよ」
「ずいぶんはっきり言うな」
男はそう言って笑った。何日かぶりかに笑った。少しだけ苦しみを忘れていたのかもしれない。
「お嬢ちゃん、どこから来たのか知らないけれど、もう日も暮れてきた。早くママの待ってるおうちに帰った方がいいな」
まっすぐに少女の目が男の目を見下ろしていた。
……ああ。と、男は思う。そんな目だ。そんな目を見たかったのだと。
懐かしさがわいてくる。男はじっと目を閉じた。
「わたし、家はないよ」
男のすぐ横で声がした。少女は男の隣で、男と同じように道路に足を投げ出して座り込んだ。組み合わせた指に視線を下ろしている。
自分のミニチュアがいるような気がした。ただ、少女には男ほどの苦しみがあるようには見えなかった。帰るべき場所をなくした苦しみ。そんな苦しみは、まだ知る由もないのだろう。ケロリとした顔をしている。だから……
「オレに嘘を言ってもダメだぜ。今君は嘘つきの顔をした」
男はそう言った。
少女はハッとしたように顔を上げた。
息も絶え絶え……ついさっきまでそうだった。それで、こんな所でへたり込んでいた。恐らく、今日明日の問題だ。どの道長くないのはわかっている。今だって、内側から釘を打たれるような胸の痛みや、こみ上げる息苦しさとめまいから解放されたわけじゃない。
エンディングが近づいてくる……男は全身で感じている。
自分の横でへたり込んだ少女の顔に、わずかに悲壮感がにじむ。少しだけ、今の自分に近づいた気がした。
日は容赦なく暮れていく。小さな少女を物騒な街の一角に抱き込んで。
「家出してきたのか……」
「ど、どうしてわかるの!」
「だいたいわかるよ。オレも長いこと人間してたから。君ぐらいの年頃には誰しも企んでしまうものさ」
「……うん。だから、帰れないの」
「だけどな、ここは……この場所はヤバイ。わかるか? ここは君のような小さな女の子がうろつく場所じゃないんだ」
「知ってるよ。だから、男の子みたいなカッコウで来たもん」
「そうかい……その選択は褒めてやるよ。でも、日も暮れてきた。家出もいいが、場所が悪かったと思って今日は帰るんだ。今度家出をするときは、友達数人と計画を立ててからしろ」
少女は立ち上がった。
「友達なんて、いないもん!」
男はまた首を垂れた。笑ったようだった。
「これ以上日が落ちて、恐い大人がうろうろしはじめても、オレはおうちに送っていってやれないからな。お嬢ちゃん」
少女は男に背を向けて立っていた。
少女がギュッと握り拳に力を込めたのを男は見ていた。
実際に、どこからわいて出て来たのか、物騒な出で立ちの連中が男と少女の前を通り過ぎて行く。
きっと、少女はそれを見て身を強張らせていたのだ。
「……おじさん。……おじさん、ずっとここにいるの」
「……ああ」
「夜は寒くなるよ。風邪ひいちゃうよ」
「……ああ」
「……恐いよ」
「大丈夫だよ、おじさんは……おじさんは大人だからね」
自然に込み上げてくる笑み。何がおかしい? 痛みのせいで笑えるのだろうか。
辺りが暗くなり、数少ない街路灯がともり始める。
少女が振り返って男を見た。目にはいっぱいの涙を浮かべていた。堪えようとしているのだろうか、しきりに鼻をすすりあげている。
エンディングを迎えるなら、そういう目で見てほしい。
街路灯の下、今ははっきりと見える少女の姿に感謝した。
男はオーバーコートの左袖からするりと腕を抜き取ると、その腕を拡げて言った。
「おいで……ここなら恐くないし、寒くない」
少女は大きく頷いて、男のコートの左側にスッポリと収まった。
——きっと、この夜は最後だから、君とたくさん話をしよう。
「本当に、月が出ていてよかった」
「どうして?」
「雨が降らない。そういうことだよ」
「そうか……じゃあ」
少女は男の腕の間に頭を突っ込んで、コートの外に頭を出し、プルプルと首を振った。
「こうしていても大丈夫でしょう?」
「そうだな」
一着のコートから二つの頭が出ていた。
すぐ横にあった街路灯のおかげで、そこは仄かに明るかった。
前を通り過ぎる人も、男と少女を一瞥するものの、何も言わず通り過ぎていった。
みんな、この男のことを知っていたのかもしれない。
ここに住む人は、そういう感覚は冴えている。
みなエンディングの観客にはなりたくないのだった。
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