浮気相手のフリ



 ルカが背中を丸め、滝汗を流す私の顔をじぃっと覗き込んできた。

 笑顔で小首を傾げる可愛らしいはずの仕草が、彼の見た目が厳ついが故に全く可愛く見えない。


「要するにぃ、俺がそのはっきりせえへん婚約者の前でアリアとイチャイチャラブラブチュッチュして分からせればええってこと? お安い御用~」

「いやあの決して実際に何かそういった行為に及ぶというわけではなくてですねその」

「分かっとるよぉ。〝フリ〟なんやろ。俺、アリアの役に立てるならいくらでもこの体貸したるよ。アリアなら好きにしてええから」


 早口で否定するが、目の前のルカは分かっているのかいないのかニコニコと笑うばかりだ。

 やはり何か認識に齟齬があるような、と思いつつ、もうこの際誰でもいいような気もしてきた。それに、マフィア相手にあまり拒否し続けていると「嫌がるなんて生意気だ」などと言って拳銃を出されかねない。死ぬにしてもこの店で血を流すようなことは避けたい。


「……では、一度だけお願いしてもいいですか。浮気相手のフリ」


 一度だけという条件付きで恐る恐る依頼する。



 ……正直、私はこの作戦でレオ王子が変化するだろうとはあまり思っていない。

 レオ王子が形式上結婚するだけで私自身には興味がないことくらい、あの態度を見てよく理解している。

 きっと浮気しようが何だろうがどうせ相手にされなくて、絶望が待っているだけ。


 分かっていても期待を捨てきれないのは好きだからだ。

 初めての私の婚約者。あの深いマリンブルーの瞳に惹かれた。――彼の瞳は、静かに泣いているように見えたから。いつかあの人と本当の意味で家族になって、泣き止ませてみたいと思っている。


(浮気のフリなんて失礼なことをするなら、それなりの覚悟は持ってやった方がいい。一回で何も言われなければ大人しく身を引こう)


 悲しい目をしたレオ王子を幸せにできるのは、私でなくエミリアかもしれない。

 そう確信した時には、諦めてこちらから婚約を破断にすると心に決めた。



 ◆


 宮殿の敷地内にある湖は、ラクア王国の三大絶景とも言われている程華やかだ。水面が太陽の光を反射してキラキラと輝いており、冬には一般開放されて沢山の観光客が訪れる場所である。

 私は湖の端から望遠鏡でその湖の中心を見た。


 ――湖の中心で、レオ王子とエミリアが踊っている。

 レオ王子の表情は私に向けるそれよりも柔らかだ。まるで妹を見るような優しい眼差しでエミリアを見つめている。

 エミリアが水上歩行用のガラスの靴でステップを踏む度、水が足元でわずかに跳ねる。その姿は天使かと疑うくらいに可愛らしく、レオ王子を夢中にさせてしまうのも頷ける魅力があった。


「ぐぬぬぬぬぬぬぬ……」


 ミシッ、と望遠鏡を持つ手に力が入る。

 身を引こうなんてしおらしいことを考えていたが、あのイチャイチャっぷりを見るとむしろあの二人の仲を引き裂いて関係性をぐちゃぐちゃにしてやりたい程の殺意が芽生えてくる。

 エミリアがいなければ、あそこにいるのは婚約者である私だったかもしれないのに、ムカつく!


 そこまで考えてハッとした。


(駄目だ、身分でも容姿でもエミリアに負けてるのに、醜い嫉妬なんかに支配されたらより格下の女になってしまう……!)


 ブンブンと首を横に振って邪念を振り払う。

 私は別にエミリアを陥れたいわけではない。ただ、婚約者としてレオ王子ともっとお近付きになれたらと思っているだけ……。


「おいおい、あいつ腰に手ぇ回してるで。ダンスとはいえひっつきすぎちゃう?」


 ――隣で私と同じく望遠鏡を覗いているルカが、退屈そうに欠伸している。


「昼間っからふわふわした女とくだらんダンスの練習。国民には重い税課しといて、王族様は随分暇なんやなぁ」

「しっ、王家の者に向かってなんてこと言うんですか」

「俺、身分とか興味ないしぃ」

「身分制度のおかげで守られているものだってあるんです。安易に無礼なことを言うのはやめてください。誰かに聞かれたらどうするんですか」


 ラクアの国民として信じられない態度を取るルカに思わず注意した直後、さすがに言い過ぎたかと心配になってその顔色を窺う。

 ゆるゆるとした口調のせいで忘れそうになるが、この男はれっきとしたマフィアのボスだ。あまり舐めた口を利いていると即・射殺も有り得る。


 しかし、私に注意されたはずのルカは何故か蕩けそうなほど恍惚とした表情を浮かべた。


「はぁい。ごめんなぁ。王族なんか大っきらいやけど、アリアが言うなら悪口言うん控えるわぁ」

「……そうしていただけると」


 私は明後日の方向を向きながら小さな声で返した。

 怖い。昨夜から何だこいつは。何故私が何か言う度に嬉しそうに頬を綻ばせるんだ。



 その時、遠くでエミリアとレオ王子がダンスを終えて湖から出ようとしている様子が見られた。

 私は望遠鏡を地面に投げ捨て、「スタンバイしますよ!」と勇ましくルカを誘う。


 レオ王子たちが向かう先は、予想通り北西。

 湖畔のその方向にはベンチがあり、彼らは週に一度あそこで仲睦まじくランチをしているらしい。


 我々はそこに先回りし、イチャイチャを見せつける必要がある。


 ドレスの裾を手で掴み上げ、早足でベンチの前に向かう。

 今回、ルカには私が用意した北方商人用の長袖の服とマフラーを着用してもらった。格好が春という季節に合わなすぎていてこれはこれで不審者なのだが、いかにもザ・マフィアといったタトゥー丸出しではルカ王子に私がその手の者と交流があると思われてしまう。

 ルカの設定は、ラクア王国の山岳地帯からやってきた商人。設定上は一時的に商売で王都に赴いた男であり、そこでたまたま出会った私に一方的に恋心を抱きアタックしている。今回私はレオ王子に会いに来ているが、私への恋心が止まらない商人・ルカはそれを阻止するため宮殿の敷地内まで私を追いかけてきたという流れである。

 このような設定を自分で考えるのはめちゃくちゃ恥ずかしかった。羞恥心を無駄にしないためにも、必ず成功させなくてはならない。


 視界の端でレオ王子とエミリアがこちらに近付いてきているのを確認してから、ルカに「……どうぞ」と小声で合図する。


 同時に、ルカが私の腕を掴んだ。

 そこまでは私が前もって指示した通りだった。


 しかし、ルカは掴むだけでなく私の腰に手を回し、体を引き寄せてくる。


「えっ……あ、あの、ここまで近付かなくても」

「〝王子様〟もしとったやろ?」


 確かにレオ王子もさっきエミリアの腰に手を回していたが、かといってここまで接近したら本当に私側の浮気を疑われかねない。

 焦って離れようとするが、腕の力が強くてびくともしなかった。

 顔を上げて注意しようとした時、予想以上に間近にルカの顔があってドキリとする。ダビデも一応生物学上は男だが心が男でないので除外するとして、異性とこんなに近付き、触れられるのは初めてだ。

 カァッと顔が熱を帯びる。その反応を見たルカの口角がゆるりと弧を描く。


「ふ、男慣れしてへんの? 曲がりなりにもお育ちのええ貴族のご令嬢やもんなぁ。――そないな顔されたら、ぐちゃぐちゃに染めたなるわあ」


 その妖しい笑顔にぞくりと背筋に寒気が走った。


 刹那、「きゃあっ」とやや遠方でエミリアの悲鳴が聞こえる。

 完全にルカに気を取られていた私は、はっとしてレオ王子たちの方を向く。


 ――湖の上を歩いてこちらに来ていたはずのエミリアの靴が、ずぶずぶとゆっくり水の中に沈んでいっている。

 途端にバランスを崩し、水面へ倒れ込みそうになるエミリア。その細腕をエミリアの隣のレオ王子が掴むが、靴の沈水は収まらず、エミリアの体が水の中に溺れていく。




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