バー・フェリーチェのオネエ




「しかし、アリア様の店というのは、あの物凄く薄暗い場所に建っているバーですよね……?」


 執事が心配そうに聞いてくる。

 心配する気持ちも分かる。私が母から引き継いだのは、隣接するスラム街と王都の間にあるやや柄の悪い連中が出入りする靴磨きバーなのだから。

 ラクア王国には禁酒法が施行されていた時代がある。かつて、庶民の間での「靴を磨きますよ」という誘いは「ここで酒が飲めますよ」という意味の隠語だったらしい。

 昔の靴磨き職人は靴磨きだけでは食べていけなかったため、違法なものに手を出して富を得ていた。

 酒が解禁された現代でも靴磨き職人がバーを経営していることが多いのはその名残だ。


「母様は病気でもう靴を磨くことができない。だから、私が責任を持ってあのお店を管理しなくちゃ」

「ですが……アリア様はまだお酒が飲めるような年齢でもないのに……無理やり飲まされたりしてないですか? 大人の世界にはイッキというのがありまして、もしアリア様が被害に遭っていたらと思うと私は……私は……」


 ブルブルと身を震わせる執事。

 この執事、レオ王子の宮殿の執事だというのに私のことをまるで我が子のように考えてくれる。娘と私が同年代だから感情移入してしまっているのだろう。


「大丈夫よ。いざとなれば他のバーテンダーもいるし、今のところ飲ませてこようとした客はいない。それに何より、靴磨きって楽しいし。靴を磨いている間に談笑してるお客さんを見るのも好き。靴を磨いて人の役に立つのが私の生きがいなんだ」


 安心させるために笑顔でそう伝えると、執事はまだ少し納得していないような顔をしつつも頷いてくれた。


「最初は、自ら働く貴族のご令嬢なんて珍しいと思いましたが。仕事はアリア様の生きがいでもあるのですね。ならば、レオ様には黙っておきます」


 〝珍しい〟なんてオブラートに包んだ言い方をしてくれているが、より適切な言い方をするならば〝はしたない〟だろう。ラクア王国では曲がりなりにも貴族の娘が外に出て働くことはみっともないことであるとされている。

 レオ王子も、この事実を知ったら止めてくるに違いない。けれど、私は……母から引き継いだあの店だけは、捨てたくないと思っていた。



 ◆


 レオ王子の〝ちょっと〟は随分と長いらしく、結局五時間待たされた。

 何をしているんだか知らないが、若い男女が密室で二人きりのまま五時間。さすがに嫉妬しても許されるだろう。

 夕暮れ時、エミリアはようやく宮殿から帰っていった。


「アリア様、ごきげんよう。またお話しましょう」

「……ごきげんよう」


 私にもきちんと礼儀正しく別れの挨拶をしてくるエミリアから、私への敵意は感じられない。天然で空気が読めないところを除けばおそらくいい子であるのがまた厄介だ。何も言えなくなってしまう。


「ごめんね、アリア。チェスが長引いてしまって」

「……いえ」


 エミリアが去った後、レオ王子は私への申し訳なさなんて微塵も感じていなそうな笑顔をこちらに向けてくる。

 大好きな笑顔。でも、思えばレオ王子はいつも顔に貼り付けたような笑みを浮かべていて何だか不気味だ。ほぼいつも同じ表情なのである。

 それは、婚約者の私に対して仮面を付けているということではないだろうか。


「……レオ王子」


 私は勇気を振り絞り、レオ王子に一歩近付いた。


「もう少し、私との時間も作ってはいただけないでしょうか」


 このままでは互いのことをほぼ何も知らないまま、結婚の日が来てしまう。私はレオ王子にもう少し私のことを知ってほしかった。政略結婚としての義務的な結婚でなく、明るい気持ちで結婚してほしい。そう思って提案した――が。


「悪いけど、僕は忙しいんだよ」


 レオ王子はいつもと何ら変わらぬ優しい声でその提案を却下してきた。

 これがレオ王子の怖いところだ。顔も声も振る舞いも優しいのに、出てくる言葉は厳しい。


「……ですが……」


 エミリアとは遊ぶのに、婚約者との時間が取れないというのは納得できない。仮にもこれから夫婦になるのに、こんな状態でいいはずがない。

 しかし、レオ王子は淡々と聞き返してくる。


「〝第三〟王子だから、やることなんてないだろうって馬鹿にしてるの?」

「っ、い、いえ! まさか、そんなことは!」


 ブンブンと首を横に振る。思わぬところで地雷を踏んでしまったかもしれない。

 レオ王子は王位継承権を得ている長男や、自分とは違って健康な体を持ち広く活躍している次男に強烈なコンプレックスを抱えている。だから、何かに付けて第三王子という立場を引き合いに出してくるのだ。


「君はもう帰っていいよ」

「……申し訳ありません。弁えもせず、時間を作ってほしいなどと、我が儘なことを言ってしまいました」


 深く頭を下げて謝る。そもそも、よく考えればレオ王子と私では身分が違う。望みすぎてはいけないことに、もっと早く気付くべきだった。


「うん。分かったならいい。僕も最近構えてなくて、そんなことを言わせてしまってごめんね。また今度時間を作るよ」


 おそらくレオ王子の言う今度は来ないのだろうな、と思った。



 ◆



 夜の空の上で、鮮明な月が白く光っている。

 私はレオ王子の元へ行く時に着ていた青のドレスを脱ぎ捨て、動きやすい服装に着替えてから職場へ向かった。

 目立たない小さな木の扉を抜けた先に、 feliceフェリーチェという名の靴磨きバーがある。入ってすぐある棚に飾られている、歴史的な靴の数々が特徴的だ。

 レンガの壁の店内にはゆったりしたクラシック音楽が流れている。曲がりくねったカウンター席や四角いテーブル席で、人々が今日もフィンガーフードやカクテルを飲んでいた。

 葉巻たばこの煙が充満する中を潜り抜け、スタッフルームへ歩いていく。向かう途中、横目に今日の客層を確認すると、顔を見られたくないのか深く帽子を被っている客や、テーブルの上に他国のお金を出して何かの取り引きをしている人が目に入ってきた。


 スタッフルームに入ると、ちょうど休憩していたらしいうちのバーテンダー、ダビデが立っていた。

 服からはみ出そうなゴツい筋肉とは裏腹に、可愛らしいメイクとふわふわの巻き毛をしたダビデ。心は女、体は男のいわゆるオネエ、頼れる姉貴分だ。母が気に入って雇って以降、ずっとうちの店にいる。


 彼は私達が店の裏で飼っている小型の鳥の魔物に餌をあげていた。魔物は大きなものであれば飼うのに資格が必要だが、低級の愛玩魔物であれば私達のような下級貴族も飼うことができるのだ。


 私は靴を履き替えながらダビデに言った。


「今日、きな臭い人多くない? 右奥のテーブルの人、多分薬の売人だし」

「あら、何で分かるの?」

「見れば分かる。雰囲気とか、仕草とか」


 禁酒法時代に密造酒を提供していたバーであった名残で、うちのバーにはややアウトローな人がよく集まってくる。

 幼い頃から母のいるバーに入り浸り、その光景に見慣れてしまった私の目は、大体どの人がそういう部類の人間が見分けられるようになっていた。


「いい男いるかしら~」

「……ダビデ、あんまり危ない人には近付かないでね」

「はいはい。アンタは心配性ねえ。掘られそうになったら掘り返すから大丈夫よん」

「そういう話じゃないし。やめてよ、下品な」

「もう、ウブなんだからん。ていうか、アンタ今日来ないと思ってたわよ。てっきりあの王子様とあつぅ~い一夜を過ごすものかと」

「……帰れって言われたんだもん、仕方ないでしょ」

「ええ!? 何アンタ、王子様に嫌われてるワケ? ウケる~折角の玉の輿なのに。やっぱ女も結婚すれば幸せになれるってもんじゃないのねえ」


 面白がってケラケラと笑うダビデの金玉を蹴ってやりたくなる気持ちを押さえ、最近のレオ王子の様子を愚痴ってやった。

 彼にはエミリアという名の可愛らしい女性の友人がいること、あからさまに婚約者である自分よりエミリアを優先していること、自分との時間も取ってほしいと頼めば不機嫌になって追い返されたこと。

 話しているうちに怒りが芽生えてきて、靴磨き用の道具を手入れする手の力が強まった。



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