第3話
それから、二カ月近くが経った
キヨの認知症は一進一退しているようで、日によってずいぶん様子が違っていた。
キヨのことを気にかけるようになった芽衣にもようやくそのことが少しわかってきた。しゃんとしている日もあれば、ぼんやりしている日もある。ひどく感情的に泣いたり、怒ったりしている日もあった。朝には機嫌が良くても、芽衣が学校から帰ると、朝とは別人のようなこともあった。
芽衣はキヨの一挙手一投足にすっかり振り回されてしまうことになるから、二人きりでいることをできるだけ避けるようになっていた。
ホームルームはとっくに終わっている。
テスト期間でみんな早々に帰途についたらしく教室に残っているのは芽衣だけだった。早く帰宅すれば、キヨと二人でいる時間が長くなってしまう。
(今日のおばあちゃんはどんな人なんだろう)
そんなことを考え出すと、帰宅する気になれない。
教室の窓からぼんやりとグラウンドを眺めてながら、大きなため息をついたときポンと肩を叩かれた。
「どうしたの、芽衣。まだ帰らないの?」
みんな帰ったと思っていたのに、由美がカバンを抱えて立っている。
「あれ、由美もまだいたの?」
「委員会。今、終わったとこなんだ」
由美は小学校も一緒で、芽衣にとっては気を許せる友達だった。芽衣の家にも遊びに来たことがあって家族ぐるみの付き合いだが、キヨのことは何となく話したくなくて言葉を濁した。
「んー……家に、帰りたくないんだよね」
「芽衣も反抗期なのか、ちょっとびっくり」
由美は大きな目をさらに丸くしている。
「別に反抗期ってわけじゃないんだ。でも、何となく、ね」
言いあぐねている芽衣を問い詰めるでもなく、由美はさらりと言葉を重ねた。
「そっか。私たち、悩み多き年頃だもんね」
「ん……」
ふと由美に相談してみようか、と思ったがやっぱり言えなかった。そんな芽衣を気遣ってか、由美は隣の席の椅子を持ってきて芽衣の椅子に並べて置くとすとんと腰かけた。
「芽衣のとこは平和でしょ。うちなんかさ、おじいちゃんがぼけちゃって大変なんだって。ま、もともと天然なんだけどさ、最近ひどいのよ」
ドキリとした胸を押さえて、芽衣は由美を見た。
「ぼけ…ちゃったの?」
「そうなのよ。大変は大変なんだけど、何か面白いんだよね。この前なんか、ランニングにステテコ姿でうろついてんの。こんな時期に寒くないのかよ、って思わず突っ込んじゃったわ」
芽衣は平静を装っていたけれど、内心では驚いていた。どうしてこんな話をさらっとしてしまえるのだろう。
「由美は、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしい? そっか、そうだよね。ステテコって下着、だもんね。そう言われたら恥ずかしいわ。寒いの突っ込んでる場合じゃなかったか」
「そうじゃなくて……」
「ん?」
「だって、ぼけちゃってって……」
小さな声で呟いた芽衣を由美は笑い飛ばした。
「そっち? だって、歳なんだから仕方ないじゃん。それに子供みたいでさ、なんか可愛いんだよね。ご飯のときだって嫌いなおかず出てくると、こんなの嫌だーって駄々こねるの。おかしなことばっかやってるんだけどさ、急に、自分がぼけちゃったことに気がつくのよ。んで、落ち込んじゃったりするから、憎めないんだよね」
「えっ、ぼけちゃったのに?」
ふふふ、と由美は可笑しそうに笑った。
「意外でしょ? 時々、自覚しちゃうみたいだよ。それに感情はなくなるわけじゃないじゃん。前より自分の気持ちに正直になったって感じかな。怒ったり、泣いたり、笑ったり。なんでもすぐ忘れちゃうけどね。でも、なんか一生懸命だから、仕方ないかぁって思うんだよね」
「ふうん、そっか…。」
「芽衣、一緒に帰らない?」
由美の言葉に、芽衣は小さく頷いた。
帰り道、他愛ないおしゃべりをしていても、由美の言葉が頭から離れなかった。
芽衣が学校から帰ると、平日だと言うのにリビングに父がいた。栄子と弘樹もそろっていて、芽衣の帰りを待っていたらしい。
「もしかして、お父さん、リストラされちゃったの?」
芽衣の言葉に父は苦笑いをした。
「バカなこと言わないでくれよ、そんなわけないだろ。今日はおばあちゃんがお世話になる介護施設の見学に行くんだよ」
それを聞いた栄子は、嫌な顔をした。
「おばあちゃんの面倒はわたしが見るって言っているじゃない」
「もう決めたことじゃないか。今はまだ大丈夫でもこれから認知症は進んでいくんだから、どのみち一人じゃ無理だろう」
「でも……」
不満げな栄子をなだめるように、弘樹が口を挟んだ。
「たまには外に出たほうが気分転換になって、ばあちゃんにとってもいいことなんだし。そんなに深刻になるようなことじゃないよ。それに週に何度かデイサービスを利用するだけなんだろ。母さん、大げさなんだって」
「そんな簡単なことじゃないわ」
いきり立つ栄子を困ったように見ていた父が、不意に芽衣に問いかけた。
「芽衣はどう思う?」
「わたしに聞かれても、わかんないよ。とりあえず、見てくれば?」
投げやりに答えた芽衣だが、本心ではたまにでもいいからキヨが外出してくれる方がいいと思っていた。芽衣の言葉に弘樹はすかさず援護射撃を入れた。
「そうだよ。とりあえず見るだけでもいいんだからさ。行ってきなよ。」
子供たちにそう言われたことで、栄子も渋々ながらも納得したようだった。
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