第2話
体を揺すられて、芽衣は目を覚ました。
栄子がベッドの脇に座って、心配そうに芽衣の顔をのぞきこんでいる。いつの間にか眠ってしまったらしい。
「昼ごはんは? 食べてないの?」
栄子の問いかけには答えず、芽衣は栄子をまっすぐに見つめた。
「おばあちゃんは?」
栄子は怯んだように一瞬、目を伏せた。
「部屋にいると思うけど…何かあった?」
「おばあちゃん、すごく怒っちゃったの。でもどうしてだか、私にはわかんない。それから思いっきり突き飛ばされたんだよ。私、何もしてないのに……」
しゃべっているうちに悲しくなって、芽衣の目から大粒の涙がこぼれた。
「おばあちゃん、おかしいよ。いつもきれいな部屋がぐっちゃぐっちゃだったし、おまけに私のことすっごく怖い顔してにらみつけてたんだよ」
しゃくりあげる芽衣の背中を撫でながら、栄子は小さくため息をついた。
「芽衣にもちゃんと話しておかなくちゃね」
栄子は言葉を選びながら話しだした。
キヨの記憶が混乱していること。
時折、ひどく感情的になってしまうこと。
それは認知症という病気のせいだということ。
「新しいことから少しずつ、忘れていってしまうんだって。だんだん物忘れがひどくなったことに自分でも気がついていたのよ。でも、そのことをみんなに知られたくなくて、だから、部屋に引きこもっていたみたいなの」
栄子にそう言われて、芽衣は最近キヨとあまり話をしていなかったことに気がついた。中学生になってから、芽衣の関心は学校や友達、おしゃれすることばかりに向いていたし、部活も塾もあって忙しかったから、キヨのことなどほとんど気に留めていなかった。
「私が働いていたから、おばあちゃんが家事も子育てもずっと手伝ってくれていたでしょ。あんたたちも手がかからなくなったし、おばあちゃんにも自分の時間が必要だろうって思ったんだけど、それがいけなかったみたい。いつの間にか、認知症がすすんでしまっていたのよ」
芽衣にはよくわからなかった。歳をとると物忘れをするのは知っていた。でも、あんな風に人が変わるなんて信じられない。
「でも、突き飛ばすことないのに、ひどいよ」
「そうね。でも、かなり目も悪くなっているから、きっと誰かと間違えたのよ。芽衣だってわかっていたら、きっとそんなことしなかったと思うわ」
栄子は芽衣を慰めるように言葉を重ねたが、芽衣は心の奥に芽生えた小さな嫌悪感を消し去ることはできなかった。
翌朝、芽衣は足音がしないようにそっと階段を降りた。警戒するように周りを見ていると、後ろから兄の弘樹に頭をこづかれた。
「痛っ。何するのよ」
「お前、何やっているんだよ。忍者ごっこって歳じゃないだろ?」
ふてくされた顔でつんと横を向いた芽衣を見て、弘樹はにやりと笑った。
「また、ばあちゃんに怒られるんじゃないかって、びびってるんだろ?」
「な、なんで知っているのよ?」
「聞こえていたからに決まってるだろ」
弘樹は澄ました顔でそう言った。
「ぬすみ聞きしていたの? ほんと、最低」
「人聞きの悪いこと言うなよ。聞こえたんだから仕方ないだろ。だいたい、かなり前から、ばあちゃんの様子がおかしいってみんな思っていたのに、お前だけが気がつかなかったんだろ」
言い返せずに、芽衣は唇をかんだ
「芽衣は小さいから仕方ないって父さんも母さんも言うけどさ、小さいって、お前、もう中三だろ」
「うるさい、うるさい」
「お前さ、自分のことばっか考えてるけど、少しはばあちゃんの心配しようって気にならないのかよ」
「うるさいってば! お兄ちゃんなんかに私の気持ちはわからないわよ」
「ガキの戯言なんて、わかりたくなんかないね。あんなに可愛がってもらってたくせに、お前、ホントにつまんないやつだな」
「うるさいって言ってるでしょ」
弘樹をにらみつけてから、そっぽを向いて振り返った芽衣の目の前にはキヨが立っていた。思わず身構えた芽衣に、キヨは屈託なく微笑んだ。
「芽衣、おはよう。よく眠れた?」
いつもと変わらず、何事もなかったようなキヨの様子に拍子抜けした芽衣は、戸惑いながら引きつった笑顔を浮かべた。
「うん。おばあちゃんは?」
「よく眠れましたよ。芽衣の顔を見たから、きっと今日はいい日になるわね」
昨日のことが嘘みたいだった。
(私ったら深刻ぶって、馬鹿みたい)
そう思って、芽衣はほっとした。大したこともないのに、大騒ぎしたことが恥ずかしくなった。
「ねえ、おばあちゃん。朝ごはんは? 私、おなかがすいちゃった」
「そうね。そう言われたら、私もおなかがすいてきたわ。行きましょう」
いたずらっ子のように笑うキヨはずいぶん小さくて、芽衣を見上げている。
(おばあちゃん、いつの間にこんなに小さくなっちゃたんだろう)
そんなことを考えながらキヨと一緒に台所に行くと、食卓には芽衣の朝食だけが整えられていた。
「あれ、おばあちゃんのご飯は?」
洗い物をしていた栄子の手が止まった。振り返った栄子はちょっと困った顔をしてキヨと芽衣の顔を交互に見比べた。
「あら、ごめんなさい。おばあちゃんはあとにすると思っていたから。すぐに用意するわね」
そういうと、今、洗い終えたばかりの食器の中からキヨの茶碗とお椀を取り出した。それを見た芽衣ははっとしたようにつぶやいた。
「お母さん……」
芽衣の言葉を制するように栄子は小さく頷いた。
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