アジサイの迷路
楠木夢路
第1話
芽衣の一日は、仏壇に手を合わせることから始まる。
それは祖母であるキヨの影響だった。
キヨは毎朝起きると仏壇にご飯を供え、ロウソクをともして線香をあげる。それから仏壇の前で正座をすると手を合わせたまま長いこと座っている。
幼かった芽衣は、物心がつく前からキヨの隣にちょこんと座って、手を合わせるようになっていた。そんな芽衣の頭をいつも優しく撫でて、褒めてくれた。
「芽衣は本当におりこうさんだね」
幼かった芽衣は、キヨに褒められるのが嬉しかった。毎朝、仏壇の前に座って手を合わせてから、朝ごはんを食べることが芽衣の日課になっていた。
中学生になってからは、キヨよりも早く起きて部活に行くようになったが、それでも朝は仏壇に手を合わせないと何だか落ち着かない。
その日も芽衣は仏壇に線香をあげて手を合わせた。芽衣が立ち上がると同時に、すっと隣の部屋のふすまが開いてキヨが顔を出した。
「おはよう、おばあちゃん」
キヨの返事も待たずに、芽衣はすぐに背を向けて洗面所に向かった。
念入りに顔を洗った後、時間をかけて短い髪をセットする。思うように髪型が決まらなくて、いらいらしながら鏡を覗きこんでいると、すっかり身支度を済ませた母の栄子が後ろからひょいと顔を出した。
「あんた、いつまで自分の顔見れば気が済むの。母さん、早番だからもう行くわね。今日からテストでしょ? 昼ごはん、おばあちゃんと食べてね」
早口でまくし立てる栄子の顔を鏡越しに見ながら、芽衣は短く返事をした。
「わかってる」
それでも栄子はまだいいたりないらしい。
「いい加減にしてご飯食べちゃいなさい。早くしないと遅刻しちゃうわよ」
「もう、わかったってば」
そう言いながら振り返った芽衣に「おばあちゃん、頼んだからね」と念押しすると、栄子は気が済んだのか、さっさと背を向けて出かけてしまった。
「おばあちゃん、子供じゃないんだから。頼むって何よ」
芽衣は、姿の見えなくなった栄子に悪態をつきながら再び鏡を覗き込んだ。
学校から帰宅して荷物を部屋においてから、芽衣はキヨの部屋に向かった。
「ただいま。おばあちゃん、お腹すいたでしょ」
声をかけながら襖を開けて、芽衣は息をのんだ。まるで泥棒が入ったみたいに雑然とした部屋の真ん中にキヨがぼんやり座りこんでいた。
「おばあちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
「ないの……ないのよ。どっかにしまったはずなのに、思い出せないの」
どうやら泥棒じゃないらしいとほっとして、芽衣は何気なくキヨの肩に手を置いた。
「何がないの? 一緒に探してあげるよ」
すると、キヨは乱暴に芽衣の手を払いのけた。
「放っておいてちょうだい」
思いも寄らない大きな声に、芽衣はちょっと困惑しながらも膝をついて、キヨの顔をのぞきこんだ。キヨはキッとした表情で芽衣をにらんでいる。
「とにかく、片付けようよ。こんなに散らかっていたら、何がどこにあるのかわかんないじゃない」
初めて見るキヨの表情に動揺した芽衣は思わず目を逸らし、キヨに背を向けて散乱している本を拾い始めた。
次の瞬間、ドンと背中に強い衝撃を受けた。気がつけば前のめりで手を畳についている。何が起こったのかわからず、戸惑っている芽衣の頭上から声が聞こえた。
「私の物に勝手に触るな。出て行け、早く出ていけ」
おそるおそる振り向くと、見たこともないような怖い顔をしたキヨが、仁王立ちで芽衣を見下ろしていた。
芽衣ははじかれたように、部屋を飛び出した。
自分の部屋に駆け込んで、芽衣はそのままベッドに体を横たえた。キヨを怒らせた理由を考えたが、いくら考えてもさっぱりわからない。
「いったい、なんなのよ」
キヨはいつも穏やかで優しかった。芽衣をずっと可愛がってくれていたし、今まで一度だって、あんな風に怒られたことはなかった。まるで人が変わってしまったかのようなキヨに、芽衣はただただ驚き、戸惑っていた。
驚きが落ち着くと、今度は腹が立ってきた。腹立ちの中に悔しいような悲しいような感情がごちゃまぜになって、芽衣は胸が締め付けられた。
「何なのよ、私が何したっていうのよ。おばあちゃんなんかもう知らない」
芽衣はベッドに顔をうずめた。
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