第4話

 キヨが週三回、デイサービスに通うようになって、四カ月が経っていた。

 キヨが施設に行くことをあれほど嫌がっていた栄子だったが、実際に見学に行ってことで安心したらしく、すっかり心変わりしていた。

 見学から帰ると、芽衣と弘樹に施設見学の感想を滔々と話して聞かせた。

「施設って、暗くて汚いと思ったら、今の施設は明るくてすごくきれいなのよ。認知症の人もたくさんいたけど、みんなで一緒に歌を歌ったりしてすごく楽しそうだったわ。施設の人もすごく、親切だったしね。あれなら、きっとおばあちゃんも喜ぶわ」

 興奮気味に話す栄子を見ながら、芽衣はぼけた人がたくさんいるなんて聞いただけでぞっとすると思っていた。それでもキヨが出かけてくれることがありがたかったから、何も言わずに黙って栄子の話を聞いているふりをした。

 最初は嫌がっていたキヨだったが、慣れてくるといそいそと嬉しそうに出かけていくようになった。

 芽衣は芽衣で受験を終え、高校も決まり、穏やかな日常が戻ってきた。

 高校生活にも慣れ、中間考査が終わった日の夕方、芽衣がひとりでのんびり過ごしていると、ドアチャイムが鳴った。

 玄関まで行ってみたが扉の向こうに人影はない。

 耳を澄ますと、庭で声がしている。芽衣がリビングに回って窓越しにそっと庭をのぞいてみると、キヨが誰かと話をしていた。 何を話しているのか、気になった芽衣は、窓を開けて庭に下りてそっと二人に近付いた。

「ほんとにきれいなアジサイね」

 見知らぬ若い女の人の言葉を受けて、キヨは機嫌よさそうに微笑んで応じた。

「芽衣が大好きな花なのよ。あなた、知っている? アジサイって普段は紫に太陽の陽って感じを書くでしょ、でもそれだけじゃなくて、本当の藍を集めるって書くこともあるのよ」

 二人の姿が急に見えなくなったと思ったら、仲良く座り込んで、地面をのぞき込んでいる。キヨが小さな枝をしきりに動かしいた。何か地面に書いているらしい。

「集めるっていう字に、真実の真、それから藍色の藍。これでアジサイ」

「へえ、知らなかったわ。キヨさん、物知りなのね」

 女の人が心底、感心した声を上げている。

 芽衣は、キヨが幼い芽衣にも同じ話をしてくれたことを思い出した。

「本当の藍を集めるって書くのよ」

 キヨの言葉を聞いたとき、まだ小さかった芽衣は勘違いをしたのだ。

「大好きをいっぱい集めるってこと?」

「大好きがいっぱい?」

 きょとんとしたキヨに芽衣は得意げに言った。

「だって、愛って大好きってことでしょ?」

 キヨは目を丸くして、それから笑い出した。どうして笑われたのかわからず、首を傾げた芽衣の頭を、キヨは優しく撫でてくれた。

「そうね、芽衣の言う通りだわ。きっとアジサイは愛をたくさん集めて幸せを呼ぶ花なのね。芽衣は本当におりこうさんね」

「大好きがいっぱいだね。芽衣、アジサイもおばあちゃんも大好き」

 芽衣はおばあちゃんっ子で、おばあちゃんが大好きだった。あの日キヨに褒められたことがとても嬉しかったことはよく覚えている。

 今、目の前で咲いている青みがかったアジサイは、その頃にキヨが芽衣にプレゼントしてくれたものだった。

 懐かしい思いに浸りながら、芽衣は二人に声をかけた。

「お帰りなさい」

 てっきり「ただいま」と言われると思っていたのに、キヨは慌てたように立ち上がると、芽衣に向かって丁寧に頭を下げた。

「いつも芽衣がお世話になっております」

 それを聞いた途端、芽衣は失望してしまった。

(私の大好きなおばあちゃんはもういないんだ)

 そんな気がして芽衣は寂しさを感じずにはいられなかった。

 芽衣が背を向けようとしたとき、キヨと話をしていた見知らぬ女の人が立ち上がって、キヨに寄り添い、問いかけた。

「キヨさん。芽衣ちゃんって幾つだったかしら」

「芽衣はね、小学生になったばっかりなの。体が小さいから、大きなランドセルを背負うのは大変なんだけど、真っ赤な顔して一生懸命歩く姿がそりゃかわいいんだから」

 思わず「えっ」と言ったまま立ち尽くす芽衣に、女の人は軽くウインクをしてみせた。それからキヨに顔を向けて、さらに語りかける。

「私も芽衣ちゃんに会ってみたいわ。いつか会わせてくれる? キヨさんの自慢の孫娘、だものね」

「そうね、そのうちね。本当にかわいくておりこうさんなのよ」

 キヨは誇らしそうに胸を張った。芽衣が混乱していると、帰宅したらしい栄子が庭先に現れた。手には買い物袋をぶら下げている。

「ごめんなさいね、遅くなっちゃって。おばあちゃん、お帰りなさい」

 キヨは栄子の姿を認めると、芽衣にまた丁寧に頭を下げた。

「お迎えみたいなので、今日はこれで失礼します」

 目を白黒させている芽衣を見て、栄子が苦笑した。

「川上さん、いつもありがとうございます」

 栄子の隣で、キヨは一緒に「ありがとう、ありがとう」と頭を下げている。

「いえいえ。またね、キヨさん」

 そう言って手を振る「川上さん」にも会釈をして、キヨは栄子と一緒に家の中に入ってしまった。

 庭に残らされた芽衣に向き直って、川上は目を細めた。

「初めまして。介護施設『ひだまり』の川上景子です」

「あ、初めまして。私、佐々木芽衣です。いつも祖母がお世話になっています」

 芽衣は丁寧に頭を下げた。顔をあげた芽衣を、川上は嬉しそうに見つめた。

「やっと本物の芽衣ちゃんに会えたわ。キヨさんったらね、いつもいつも芽衣ちゃんの話ばっかりなのよ」

 それを聞いて、芽衣は下を向いた。

「そんなはずないよ。だって、おばあちゃんは私のことなんか覚えてないもん」

 うつむいたままの芽衣の視線の先では青いアジサイがわずかに風に揺られている。それを見ながら、川上は静かに語りだした。

「キヨさんはね、過去の中にいるんだと思うの。今も思い出も中で生きているのね。だから芽衣ちゃんは、キヨさんにとってはまだ小さい芽衣ちゃん」

「どういうことだか、よくわからない」

「きっと、キヨさんは芽衣ちゃんが小さい頃が一番幸せだったのよ。だから、そのころの思い出の中にいたいんじゃないかな」

 それを聞いて、芽衣はちくりと胸の奥が痛んだ。

「私、おばあちゃんがぼけちゃっても全然気が付かなかったんです。とっても可愛がってもらったのに。」

「家族の方が意外に気付かないものなのよ」

 芽衣はちょっとびっくりして、川上を見た。

「ほんとに?」

「うん、ほんとよ。気がつかないっていうより認めたくもないのかもね。私も自分の母が認知症だって言われたときは、信じられなかったもの」

 芽衣は黙ったままアジサイに視線を移した。

「ねえ、芽衣ちゃん。いつもキヨさんが大事に持っている袋、知っている?」

「うん」

「中に何が入っているのかも?」

「ううん、それは知らない」

 キヨはいつの頃からか、小さな手縫いの袋を持って歩くようになっていた。

「今度見せてもらったら? すごくいいものが入っているから」

 満面の笑みを浮かべてそう言うと、川上はひらひらと手を振って帰っていった。

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