第14局 姉弟子との対話

(パチッ)


 小気味良い、手を指した時の音が室内に響く。


 ちなみにこの軽妙な音は、駒からだけではなく、足つき将棋盤の裏面の中央にある四角錐の窪みが音の響きを良くしているのだそうだ。


「しかし、マコが師匠か~ 私が世界放浪の旅をしている間にね~」

「中津川師匠がご存命なら、俺にお鉢が回ってくることは無かったんですけどね」


 会話をしながらも、俺は次の手を打指し、すぐにチェスクロックのストップボタンを押す。


 と同時に、盤を挟んで正座している姉弟子の桂子の時間が消費されていく。

 お互い30分の持ち時間の切れ負けの勝負だ。


 子供の頃から、姉弟子と遊び半分で雑談しながら指す、懐かしい対局方式だ。


「そうだね。しかし、桃花ちゃんはマコの事が本当に好きなんだね」

「プロ棋士になって、少しは師匠離れしてくれると良いんですが」


 全ての持ち時間を消費すると負けになるので、一手一手は30秒くらいで2人共テンポよく指していく。


 パチッ! と駒を指す音と、パシッ! とチェスクロックのストップボタンを押す音が、リビングルームに響く。


「けど、桃花ちゃんは特大の才能だね。テレビで観たけど、ありゃおっかないわ」

「この間、桃花は四段になったばかりなので、桃花の棋譜はまだ見れてないですよね?」


 なのに、何で桃花がおっかないという見立てを姉弟子はしているのだろう?


「オーラかな。私も女流ながらタイトル戦に出たりしたけど、強い人が纏っているオーラっていうのは独特の物があるんだ」


「はぁ……」


 何だか抽象的な話で、俺には姉弟子の言っていることがよく解らなかった。


 姉弟子は、女流棋士としてはトップクラスで、一時は女流タイトルを二冠保持していた。

 俺はタイトル戦の経験が無いので、その辺りの経験の差なのかもしれない。



「ねぇ、マコ……本当に、私で良いんだね?」



 盤面は、序盤を過ぎて陣形を整えた両者の駒と駒がぶつかり合い始める。

 序盤の終了が早い、急戦模様だ。


 この中盤の入口で、俺はあえて長考する。

 しばらく、場を沈黙が支配する。



「だからこそです。今の桃花に寄り添う上で、姉弟子より適任者はいない」



 30分の内の5分を使い、俺はようやく手を指して、時間差で姉弟子の問いかけに答える。



「私の時と同じ轍を踏むかもよ?」



 俺の守りの指し手に、嬉々として姉弟子は攻め上がる。

 こういった攻防の癖は、本当に子供の頃と変わらないな、姉弟子は……。


「そうなったとしても、貴女が桃花の横に居てくれた方が良い。どちらに転ぼうが、これが最善手です」


 俺は自陣の玉を戦地に上がらせる。

 姉弟子は、俺の予想外の手に一瞬眉をピクリとさせる。


「そういう理屈は、人間相手には正解とは限らないよ。あの子は、将棋がべらぼうに強くても無機質なAIじゃないんだから」


 わずかな護衛のみを連れて、敵地で遊泳する俺の命そのものである玉を仕留めようと、王手ラッシュをかける。


 ここで俺が手を誤れば、終盤に入ることなく、中盤で詰んでしまう。


 しばらくは、姉弟子の王手ラッシュに対し、敵地でフワフワと遊泳させた俺の玉が、ひらりひらりと躱すといった攻防が繰り広げられる。



「未だに解りません……」



 俺は、差し手を止め、膝にこぶしを置きながら独白する。


「なに? もう投了? ブランクのある元女流棋士に負けてるようじゃ、確かにあの子の師匠は荷が重いかな?」


 ニヤニヤしている姉弟子は嬉しそうだ。

『優勢の時にお前は表情に出し過ぎだ』と、よく師匠に怒られる時と同じ顔だ。


「いや、この局面はもう俺の勝ちです。攻めに夢中になって盤全体を見ないから、見落としが起きるんですよ、姉弟子」


 そう言って、俺はペトリと反攻の手を静かに指す。


「あ……歩を垂らされて……あれ? 私、攻めてたのにいつの間に……」

「じゃあ、詰ましますね」


 調子に乗っていた姉弟子に冷や水をぶっかけたところで、俺はその後はノータイムで指していく。


 炎上する自陣の隙間を必死に埋めようとする姉弟子だったが、ここで敵陣地でフワフワ遊泳していた玉までもが攻めに加わり、姉弟子の王を完全に包囲する。



「負けました……」



 時間切れ負けの前に、いさぎよく姉弟子が投了した。



「未だに解らないんですよね。何で桃花が俺に好意を持ってくれてるのか」

「ああ、感想戦は無しで、話の続きなのね」


 姉弟子が苦笑いしながら、駒を駒袋へ戻し始める。

 対局に負けた方が後片付けをするのが、子供の頃からのルールだ。


「最初は、身近にいるプロ棋士である俺への憧れや尊敬の感情を、恋心と誤認しているものだと思ってたんですけどね」


「子供の頃はその辺は確かにごっちゃになるよね」


「いずれ、その事に気付いて、淡い想い出か、はたまた黒歴史として心のアルバムに仕舞い込み、師匠と弟子の適度な距離感が出来ると思ったんですけどね」


「逆だったってことでしょ。これは、弟子が師匠に対する尊敬や敬意じゃなくて、恋心なんだって、桃花ちゃんは気付いたんだよ」


「それは……」


「人の内心なんて、その人だけの物だからね。たとえ、師匠でも答えを教えられるものじゃないよ」


「…………」


 駒を駒袋に入れ終えた姉弟子は、駒袋の巾着紐を絞る。


「桃花ちゃんとマコとの仲は2人だけのもの。誰かと比べられないものなんだから、ちゃんと向き合ってあげて。って、これは私の願望でもあるかな……」


 駒箱へ駒袋を片付けながら、姉弟子は苦笑いする。


「ケイちゃんは、後悔してるの?」


 俺は敢えて、子供の頃の呼び名で姉弟子を呼んで訊ねる。

 将棋に生きる人としてではなく、綾瀬桂子としての考えを聞いてみたいと思ったからだ。


「この歳まで生きて来て、全く後悔の無い人生を送ってる人間なんて存在しないでしょ」


「それには同意しますね」


 大人になる上で、人はいくつか大きな選択をする。

 選択をした瞬間に、選択をしなかった道は、可能性は消える。


 棋士の道を選んだことに後悔はないが、それでも、もしもあの時に別の選択をしていたら……と思う事は俺にもある。


「お、何? マコにもそういうのあるの? 私が世界を放浪してる間に、結婚考えてる彼女と別れたりでもした?」


 盤ごと片付け終えた姉弟子が、俺のゴシップネタを掘ろうと興味津々の目を向ける。


「何で急に生き生きしてるんですか……無いですよ、そんなの」

「ちゃんと桃花ちゃんには秘密にしとくから」


「いや、だからそういう男女関係の後悔じゃなくて……って、桃花は関係ないでしょ」


「いや、あの子は初対面の時の私への態度からして、そういうのに不寛容そうじゃん。多分、初夜の時にマコが妙に手慣れてたら、ムクれちゃうと思うから、ちゃんと童貞っぽく振舞うんだぞ。その方が、桃花ちゃんは喜びそう」


 もう、どこからツッコミを入れたらいいのか解らず、頭がクラクラしてしまう。


「唐突なド下ネタ止めてください。年頃の桃花もいるんだから、今後は気をつけてくださいよ」


 俺はジトッと少々軽蔑を混ぜた目線を、ガサツな姉弟子に向ける。


「桃花ちゃんは中学生だけど落ち着いてて大人っぽいから、ついこっちも忘れてしまうな」


「そうですか~? 外面が良いだけで、俺の前だと、ただの甘ったれた弟子ですけど」


 先日だって、対局移動時の同伴について結局、泣いて駄々っ子になったりしていたし。


「それだけ、マコを信頼してるってことでしょ。そうやって甘えられる場所って重要よ。これから、若くして頂点を昇って行く彼女には特にね」


「そういうもんですか……」

「まぁ、その辺の乙女の心の機微については、お姉さんである私に任せなさい」


 姉弟子が自信満々にフフンッ! と胸を張る。


 実に頼もしい。

この間まで、ほぼ無職だった人だけど。



(プルルッ♪)



「お、電話だ。なんだろ?」


 また、テレビ出演やら何かだったら、マネージャーの姉弟子に回せば良いかと思いつつ、俺は通話ボタンを押した。



「はい、稲田です。あ! いつも桃花が大変お世話になっております! はい、はい……」



 俺の電話でのトーンが急に下がったせいだろう。

 姉弟子も何やら不穏な空気を感じ取ったようで、俺の方に注目する。


「え⁉ はい……すぐ伺います。すいません、それでは」


「なに? 桃花ちゃん絡みで何かあったの? 確か、今日は助っ人に入ってる女子バスケ部の部活動の日だよね?」


 俺が通話を切ると同時に、心配そうに姉弟子が俺に電話の内容を尋ねてくる。




「姉弟子……桃花が、学校でケンカしたそうです」


「ゔぇっ⁉」



 予想外の話に、姉弟子がフリーズする。

 いや、電話で聞いた俺だって、俄かには信じがたかったのだ。


「ど、ど……どうしましょう姉弟子⁉ こういう時って、保護者代わりの俺としてはどうしたら……」


 突如飛び込んできた、予想外の事態に。オロオロと動揺する俺は、姉弟子に助けを求めるが、


「そ、そんなの私も解んないわよ。マコが師匠なんでしょ」


 姉弟子も、怖気づいて逃げようとする。


「姉弟子、さっき桃花の事は私に任せておきなさいって言ってたじゃないですか!」

「育児経験のない独身女に、いきなり反抗期の娘の育児の相談なんて無茶言わないでよ!」


 よく、将棋の棋士や女流棋士は歳よりも落ち着いて見られると言われるが、所詮それは将棋に付随した範囲での話でしかない。


 経験したことのない難題を前に、俺と姉弟子はただ、オタオタとすることしか出来なかった。

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