第13局 弟子の涙
「ぐずっ……えぐっ……」
「いい加減、泣き止め桃花。ほら、ティッシュ使え」
「すいませ……師匠……ビムゥーーッ‼」
何だか最近は号泣している人に、ティッシュを渡すことが多いな。
「ハハハッ! 悪いなマコ。約束の日が今日だったのすっかり忘れてたわ」
豪快に笑いながら、姉弟子の桂子が、ダイニングテーブルに座っている俺たちにコーヒーを出してくれる。
「桃花ちゃんもコーヒーでいいのかな?」
「はい……いただきます」
ようやく落ち着いて来た桃花に、桂子がにこやかにコーヒーを出してくれる。
「それにしても、この部屋の散らかり具合……姉弟子は、ちゃんと生活出来てるんですか?」
かろうじてダイニングテーブルの上は綺麗だが、雑誌や本が床に直置きで平積みされて何層にも地層を為していたり、干した後の洗濯物が畳まれずにこれまた床に置かれて山になっているのを見て、俺はため息をついた。
「あいかわらず、マコは
「中津川師匠から、ちゃんと姉弟子の事を見ておいてくれと頼まれてますから」
「っていうか、今は身内しかいなんだから、昔みたいにケイちゃん呼びで良いって。それにしても中津川師匠、元気かなー」
「いや、もう死んでますから、元気も何もないでしょ。今年は、中津川師匠の七回忌の年ですから忘れないでくださいよ姉弟子」
「はいは~い。って、だからケイちゃん呼びで良いってば。」
いや、桃花の手前、それはちょっと恥ずかしい……。
歳は俺より3つ上なのだが、姉弟子は、子供の頃から好奇心旺盛で自由奔放だったので、年下の
俺と姉弟子は、
「師匠の姉弟子の綾瀬桂子女流だったんですか⁉ すいません、先ほどは気付かなくて。その……」
謝りつつ、桃花が何やら言いにくそうに語尾をにごす。
「アハハッ。当時の女流棋士時代の写真と、今が全然違うから解んなかったんでしょ?」
カラカラと軽い調子で、桃花が言いにくかったことを自虐的にケイちゃんが笑い飛ばす。
さっき顔だけは洗ってきたようだが、姉弟子は、まだTシャツにジャージのズボンの寝起きの格好のままだ。
まぁ、身内相手だから今更取り繕っても仕方がないということなのだろう。
「いえ、その出で立ちでというよりも、その……お身体のスタイルというか、お胸のサイズ感が明らかに、当時の映像と違っていて……」
「ブフォ!」
俺は思わず口に入れたコーヒーを吹き出しそうになる。
いきなり初対面で何を言っているんだ⁉ うちの弟子は。
「ああ、着物の時には、胸に合わせてお腹にタオルとか詰め物をしてフラットにするからな。そうしないと、胸元でどんどん着物の襟が開いてきて着崩れちゃうんだ」
って、姉弟子も普通に答えるの⁉
今は、女の子だけのガールズトークの場じゃなくて、男の俺も居るんですけど⁉
「なるほど……」
桃花が、興味深そうに聞き入りながら、自分の胸元を手で覆う。
こういうアドバイスは正直、男の俺じゃ解らないから、ありがたくはあるんだけどさ……
やっぱり、俺のいない時にやって欲しい。
「あ、桃花ちゃん。私のことはケイちゃんって呼んでね」
「でも、私の師匠の姉弟子なんですから、私からしたらいわば伯母弟子で……」
「その呼び方は止めて‼ 言っても、私もまだ20代だからさ。伯母と言われる覚悟は、まだないんだよ」
タハハと姉弟子が笑う。
まぁ、俺もこの間、桃花のクラス担任の先生にオッサン呼ばわりされて怒ったから、気持ちは解らないでもない。
「じゃ、じゃあ お姉さんですし、ケイちゃんと呼ばせていただきます。」
「は~い、よろしく!」
キャイキャイとはしゃぐ姉弟子に、流石に年齢的に“ちゃん”呼びは厳しくないか? と俺は思ったが、それは内心に留めておくことにした。
「いえ、そんな。師匠の姉弟子なら、いずれ私の
……ちょっと、桃花が何言ってるか解らないな。
日本語として、意味が通っていないように聞こえるが。
「それで、姉弟子。今回の俺の依頼、引き受けてくれますか?」
居心地の悪いガールズトークの流れを断ち切るために、俺は本題に入った。
「いいよ~。どうせフリーのライターなんてヒマだし」
あっけらかんと、姉弟子が了承の言葉を俺に返す。
「ヒマって……ホント、何で女流棋士辞めたんですか? 姉弟子……」
「何度も言ってるけど、別に将棋の世界が嫌になった訳じゃないよ。ただ、色々と世界を旅して回りたくなっちゃってさ」
「師匠の葬儀が終わった直後に、連盟に退会届出しちゃって……当時は大変だったんですからね」
中津川師匠は亡くなってるし、一門で唯一残っていた俺が、関係者から質問攻めにあったのだ。
桃花が俺の下に弟子に来たのは、その直後だった。
なので、桃花に姉弟子を紹介したのは今日が初めてなのだ。
「いや、退会時のシーズンはちょうどタイトルを持ってない無冠の時だったから、これなら問題ないかな~ って思ったんだよね。さすがに、世話になった師匠の顔を潰す訳にはいかないから、師匠が隠居してからだから、もっと先の事だと私も思ってたんだけど、師匠が急逝して、条件が揃っちゃったんだよね」
こうと決めたら、突っ走る。
この点は、自由奔放な姉弟子に俺は振り回されっぱなしだ。
っていうか、桃花もカテゴリー的には姉弟子似か?
この2人を一緒にすることに、何かちょっと不安になって来たな……。
「それじゃあ、姉弟子。桃花と俺のマネージャー業務、よろしくお願いします」
「オーケー」
「え⁉ マネージャー⁉ ケイちゃんがですか?」
俺と姉弟子のやり取りを見て、桃花がびっくりして俺に問いかける。
「そうだ。春休みになって来年度になれば、桃花もプロ棋士としての活動が本格化する。そうなると、俺だけじゃ補助しきれないからな」
「うぐぅ……」
以前、この話を三段リーグ最終日の新幹線移動時にチラッと話した時には抵抗した桃花だったが、今回は言葉を飲み込んでいる。
あの時は、感情的に反対したが、冷静に後になって考えたら、師匠の俺が自分に同行し続けるというやり方が現実的な方法ではないといいうことに、桃花自身も気付いたのだろう。
「姉弟子は今の身なりはこんなんだが、仕事はきっちりやる人だからな。元女流棋士でタイトル経験もある。マネージャーをしてもらう上で、これ以上の人はいない。こんなグチャグチャな家に住んでる人だけど」
「何だか褒められて照れればいいのか、ディスられてるのか解んないぞマコ」
俺は姉弟子のことは無視し、桃花を仕留めるために追撃の手を緩めずに、詰ませにかかる。
「だって……でも……」
珍しく、迷ったような、逡巡したような、はっきりとしない態度で、桃花がうつむいてモジモジする。
「だって……ってなんだ? 桃花」
ほぼ勝利を確信している俺が、最期の屈服の一言を言わせるために、攻撃の手を緩める。
「だって……私は……師匠と一緒がいい……」
声と肩を震わせながら、たどたどしく子供のように訴えかける桃花の目には、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「う……」
ハラハラと、でも泣き声は出さずに静かに涙を流しながら俺の方を真っすぐに見る桃花を見て、俺も二の句を告げずにいた。
桃花も、師匠の俺に迷惑をかけるべきではないと理性の部分では解っているのだろう。
ただ、それでも。
やっぱり、本能とでもいうべき心の部分で、なお諦められないという想いが溢れてしまった。
故に、桃花もどうしていいのか解らずに、ハラハラと静かに泣いているのだろう。
それが伝わって来たので、俺も無闇に突き放すことが出来なかった。
ここで、俺はチラリと姉弟子の方を見やるが、姉弟子は俺の視線に対して、お手あげのジェスチャーをする。
結局、人の心は理屈だけじゃ動かないし、納得している事と、受け入れられる事は別物なのだ。
そして、桃花にとっての魔法の言葉は、俺にしか発せられないものだった。
「あ~、もう解ったよ! スケジュールが合ったら、たまには一緒に行くよ」
「師匠、大好き~~♪」
桃花が、さっきまでハラハラと泣いていたのがウソのように、俺の胸に飛び込んできた。
こいつ、本当にさっきまで泣いてたのか?
との疑念が湧くが、俺の胸の中で顔をスリスリ擦り付けてくる桃花の表情を確かめる術はない。
結局のところ、俺は弟子には甘い師匠なんだな。
そう言えば、俺の師匠の中津川師匠も、姉弟子に対しては甘かったよな……
じゃあ、こうなったのも師匠のせいだな。
うん、俺は悪くない。
そう理論武装して、俺は姉弟子からの生暖かい視線に耐えることにした。
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