第11局 良きマッサージ師との出会いは一生物
「ただいま~。って、あれ? 師匠寝てたんですか?」
「おお……桃花か。お帰り」
桃花が学校から帰って来て玄関を開けた音で、ちょうど目が覚めた俺は、突っ伏していた将棋の研究用のパソコンデスクから上半身を起こす。
「昼寝なんて珍しいですね」
「ああ……昨日までのテレビ出演ラッシュの疲れが抜けてないみたいだ」
さすがにアレは疲れた……
「ふふっ」
「なんだ? 人の顔見て笑って」
「頬っぺたにキーボードの痕(あと)が付いてますよ師匠」
「マジか⁉」
慌てて、洗面台の鏡で確認すると、くっきりとキーボードの四角い痕が幾つもついていた。
無意識に寝ちゃったから、キーボードの上に突っ伏してしまったようだ。
キーボードにヨダレ垂らしてないかな?
「昼寝するなら、ベッドかソファでしたらいいのに」
「いや、まだ研究やるから」
洗面台に来たついでに、水で顔を洗って眠気を飛ばす。
3月なので水が冷たい。
ここ数日間、テレビや新聞やらの仕事で、碌に将棋の研究が出来ていない。
明後日に対局があるので、流石に明日は取材等の用事は全て断ったのだが、その連絡が一苦労なのだ。
ようやく各所への連絡が終わって、研究のためにパソコンに向かったが、いつのまにか寝てしまっていたようだ。
「あんな体勢で寝てたら身体悪くしますよ」
「首、肩、腰、背中のコリは慣れたもんだ」
俺は、腕を後ろに引いて肩甲骨を寄せたり開いたりして、硬直した背中の筋肉をほぐそうとする。
ほぼ、効果は無いが。
パソコンの前で 棋譜の並びやAIの形勢値の考察をしていると、あっという間に何時間も経ってしまう。同じ姿勢で長時間座っているので、肩こりや首こりは最早、職業病なのだ。
プロ棋士も、デスクワークの人と同じ悩みを抱えているのだ。
「師匠、そこに寝転んでください」
顔をタオルで拭いていると、桃花がリビングで待ち構えていて、リビングの床を指さした。
「ん? フローリングにか? あ~、短時間だけ昼寝するにはフローリングで寝ると長時間寝過ごすことが無くて良いんだよな」
「そんな不健康な豆知識、弟子に伝授しないでください。マッサージしてあげますから、うつ伏せになってください」
桃花が、中心に空間があるドーナツ型のクッションを床に置いた。
「おお、いいのか? 頼む」
俺はいそいそとうつ伏せになり、ドーナツ型クッションの穴に顔を埋めるようにして寝転ぶ。
こうすると、うつ伏せでも呼吸が楽になるのだ。
「凝ってますねお客さ~ん」
「そのコント、毎回やるのな」
軽く首肩腰を触った桃花のつぶやきに、俺が苦笑いしながら答える。
首こり肩こりの痛みが酷い時には、整体院に通ったりもしてみたのだが、どうもしっくりくる施術院が見つからなかった。
そんな俺を見て、桃花がまだ小学生の頃にマッサージ役を買ってでてくれたのだ。
最初は、小さな子供が肩たたきしてくれるのに親が付き合っているという感じで、正直言ってコリほぐしにはなっていなかったのだが、師匠の俺の健康を気遣ってくれている桃花の優しさがいじらしくて、いつも感謝していた。
そしたら、将棋の級や段位と同じく、みるみるマッサージ力もアップしていき、今や柔道整復師の人も顔負けの腕前に成長したのだ。
「ふふっ……師匠が私に無防備に、自分の身体を預けるこの瞬間……征服欲が充たされる」
何やら後ろで桃花がブツブツ独り言を言っているが、クッションに顔を埋めている俺には内容は上手く聞き取れなかった。
「あふっ! ふぅ……」
「痛かったですか?」
「ううん、平気」
「じゃあ、痛かったら言ってください」
「うん、わかっ……はぐぅ!」
「ああ、ここですね。ここが良いんでしょ?」
「そこダメ! 無理!」
「ここ我慢すれば、もっと気持ちよくなれますから」
「ちょ! 無理だって言ったのに! そこグリグリしな……あっ! あっ‼」
全ての行為が終わった後には、果ててグニャグニャに脱力し、放心状態で床に倒れ伏している25歳男性と、その横で一服しつつ、倒れ伏した25歳男性を満足そうな顔で見下ろす14歳の女子中学生の姿があった。
視覚情報だけで文字起こしするとアレだが、ただのマッサージの施術行為の一幕である。
「ああ、気持ち良かった……ありがとな桃花」
ようやく息を整えて、俺は桃花に礼を言いながら身体を床から起こす。
肩をグルグル回すと、その軽さに驚く。
「どういたしまして」
リビングテーブルに座ってお茶で一服していた桃花が、ニコリと笑う。
「こんなマッサージ店があったら、何が何でも週一で予約取って絶対通うな。しかし将棋以外にも、桃花にこんな才能があったとはな」
天は二物を与えずという言葉は、所詮は持たざる者への慰めでしかないということが、桃花を見ているとよく解る。
「好きこそ物の上手なれですから」
「将棋もそうだけど、好きだから苦しい時でも続けられるからな」
「あ~、けどマッサージの施術って結構時間かかっちゃうんですよね~」
「そ、それはすまない……桃花の学校終わりの貴重な研究時間を奪ってしまっているってことだものな」
頻繁ではないとはいえ、施術は短めでも40分間くらいの時間を要している。
なので、俺の方からは中々能動的に桃花に頼めない。
如何に師匠と弟子の関係とは言え、マッサージを弟子に要求何て時代錯誤も甚だしい。
おまけに異性の弟子にマッサージを強要するなんて、セクハラで訴えられたら確実に俺が負ける!
どうしよう、今後はマッサージを桃花に依頼するのは止めるべきか?
「そうじゃなくて、私が師匠のお嫁さんになれば、毎晩マッサージしてあげるのにな~ってことですよ」
「これが毎日……」
先程、桃花へマッサージをお願いすることを逡巡していたにも関わらず、俺は、この施術を毎日受けられる生活を想像せずにはいられなかった。
「ね? だから、私が名人になって師匠と結婚したら……いっぱい、いいことしたげるよ」
それは、とても魅力的な提案だった。
『毎日お疲れ様パパ』
『ありがとう。身体にガタが来ずに健康なのは、ママが俺の身体をメンテナンスしてくれるおかげだよ』
『もう何十年もマッサージしてるから、パパの身体は全て知り尽くしちゃってるから』
『そうだな~』
『そういえば師匠……って、あらやだ! 私ったらつい昔の呼び方しちゃった』
『ハハハッ、なんだ桃花。もう結婚して子供も3人いるのに、まだ弟子気分が抜けないのか?』
『ねぇ……今夜だけは、あの頃の師匠と弟子の桃花で居させてくれない?』
『ん?』
『子供たちも寝てるから……ね?』
『まったく、桃花はいつまでも甘えん坊な弟子だな。おいで』
『はい師匠! って、あ……師匠そこは……当時そんな所、触ったりなんてしなかったよ……』
『あの時は俺も我慢してたんだよ。けど今なら……』
『あ……師匠……ダメです……』
ぬわあぁぁぁあぁあああああああああ‼
俺は何を考えてるんだ‼
妄想で、おそらくは結婚から数年間が経過したであろうに、まだ熱々な桃花との結婚生活がやけに鮮やかに幻視されてしまった。
これは危険だ。
忘れるな。俺には、桃花の名人就位即寿引退という破滅の未来予想図から棋界を救うという使命があるんだ。
惑わされるな俺!
「はいはい。桃花は将来良いお嫁さんになるよ。じゃあ、そろそろ夕飯作るから手伝ってくれ」
「むぅ……師匠はそうやっていつもはぐらかす……」
目の前にいる、まだ中学生の桃花で宜しくない妄想をしてしまった自分への少々の自己嫌悪を誤魔化した。
これは相当疲れてるな……。
「明後日の対局が終わったら、あの人に連絡するか」
俺はそう思いながら、エプロンに首を通した。
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