第7局 三段リーグ最終日
「もう一回、焼きたてオムレツ取ってきます師匠」
「桃花……お前、ちょっと食べ過ぎじゃないか?」
三段リーグ今期最終日当日の朝。
俺と、桃花は宿泊したホテルの朝食バイキング会場にいた。
出発時間が早いので、朝食会場が開くと同時に入ったので、他のお客さんも少ない。
「逆です。朝の内に栄養を摂っておかないと昼休憩までもたないです」
そう言って、シェフがその場で焼いてくれるオムレツの列に並びに行く桃花を、俺は半ば呆れながら見送りつつ、ブレンドコーヒーを一口飲む。
ここで、スマホで将棋連盟のサイトを開き、三段リーグの現在の勝ち星数をあらためて確認する。
三段リーグ最終日は、午前と午後の2局の対局がある。
桃花は現在、16勝0敗。
現在の暫定単独2位が13勝3敗なので、桃花は今日の対局で2敗したとしても首位で三段リーグを通過することが確定している。
3位以下は12勝4敗で3人が並ぶ大混戦だが、今日の対局の結果によっては、まだチャンスがある。
あ……12勝の3人の内の1人が、昨日、新幹線で同じ車両だった棚橋君だ。
えーと、歳は……うわ、25歳か……
奨励会の退会期限の26歳まで、もう後がない年齢だな。
長く三段リーグにいると、ああやって闇を纏うんだよな……
俺の頃にも
「師匠、オムレツのついでに、カリカリベーコンも貰ってきました」
屈託なく笑いながら戻って来た、三段リーグ一期抜けの中学生棋士である我が弟子とは、本当に対称的である。
きっと今頃、棚橋君は緊張で朝食なんて喉を通ってないだろうな……
「今度、家でもカリカリベーコン作ってみるか」
「本当ですか⁉ 楽しみです!」
とはいえ、桃花には関係のない話だ。
プロの世界は結果が全てなのだ。
俺はスマホをしまって、三段リーグの話題とは関係のない話を桃花に振る。
「オムレツもプロが作るとトゥルトゥルだな」
「師匠が朝ごはんに作ってくれるオムレツの方が好きです。焼き加減が私好みなので」
「ありがとよ。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃないです!」
むぅっ! と口をへの字に曲げつつ、桃花はオムレツとカリカリベーコンを平らげた。
三段リーグ最終日にむかって、どうやら気負いは無いようだ。
◇◇◇◆◇◇◇
「昼食の準備はしたな? 飲み物は余裕持って準備したか?」
「さっき、一緒にコンビニに行ったじゃないですか師匠」
受験当日に娘を送り出す母親のように気が気でないが、当の本人の桃花は落ち着いたものだった。
「よし。じゃあ、一緒に行くのはここまでだ」
「はい。行ってきます師匠」
東京の将棋会館の建物の前で、俺は桃花を先に玄関をくぐらせた。
桃花も将棋会館の建物に入ってスイッチが入ったのか、去り際に俺に甘えたりもせずに、まっすぐに対局の間へ向かった。
通常、師匠が三段リーグの対局に付き添うなんてことはしない。
プロ棋士の対局ではないので、対局中の棋譜がリアルタイムで流れてくるわけでもなく、解るのは勝ったか敗けたかの対局結果だけなので、将棋会館に詰めていてもあまり意味はなく、ただ弟子の対局結果をヤキモキして待つことになる。
ならば、自分の家でヤキモキしていた方がいささかマシというものだ。
そういう訳で、三段の師匠は、俺以外に誰も将棋会館の建物に来てはいない。
では、なぜ俺が連盟から呼ばれたかというと、この後の記者会見で同席しろとのお達しがあったからだ。
「失礼します」
「おう、入れ」
桃花と別れて、俺を呼び出した張本人がいる会長室のドアをノックした。
「おはようございます北野会長」
「この間ぶりだな稲田くん。東京までご苦労さん。茶菓子食うか?」
会長室の応接ソファにどっかりと座った北野会長が、茶菓子を勧めてくる。
「いえ、お構いなく。ホテルの朝食ビュッフェで少々、食べ過ぎたみたいで」
「バイキングで食べ過ぎるとか、稲田くんも若いね~」
「桃花のペースにあてられました」
「桃花ちゃんって、そんな食べるんだ」
出来れば若いままでいたいが、20代も後半になると、やはり年々食べられる量が減ってくる。
って、何か思考がオッサン臭いな……イヤだイヤだ。
「さて、今日の奨励会三段リーグ最終対局が終わったら、新四段の囲み取材だ。今回は、在京キー局も中継に来るから、この間の関西将棋会館の比じゃないマスコミが来るぞ~」
「みんな、桃花目当てですよね?」
この後の仕事を思うと気が滅入る俺は、思わず嫌味っぽく、張り切る会長に水を差すような物言いをしてしまう。
「そりゃそうだろ。もう一人の新四段には悪いが、これは中学生棋士が誕生する時の宿命みたいなもんだ」
そう悪びれもせずにぶっちゃけた話をする、スキンヘッドが眩しい、かつての史上4人目の中学生棋士は悪びれずに答える。
なんでこう、天才の人達ってのは、人の気持ちって奴を理解しようとする気がないのだろう。
「しかし、師匠の私はマスコミの前で何を話せばいいんでしょう?」
「さぁ? 普通、師匠は四段昇段時に来ないからな」
「私を呼んだのは会長でしょうが!」
「正直、今日の場には普段は将棋に何て見向きもしない、不作法でお行儀の悪い連中も取材陣に混じってるだろうから、桃花ちゃんのフォローを俺と一緒に頼むよ稲田くんって事で」
「まったく……要は、殺気だったマスコミからの盾になれってことですか」
事前に予想していたことだから、憮然として俺は応接テーブルに置かれた茶をすすった。
「お、そうこうしている間に、もう桃花ちゃんの午前の対局結果が出たぞ。桃花ちゃんの勝ちだ。おい、三段リーグで17勝なんて初だよな?」
「ですね。まぁ、桃花なら当然ですよ」
「おいおい、親バカか? 若けぇのに落ち着いちまってまぁ」
「……行きの新幹線でも桃花の父親に間違えられましたが、そんなに俺って老けて見えます?」
「まぁ、棋士は子供の頃から、将棋道場の年寄りに囲まれてるから、落ち着いた雰囲気にならぁな」
「…………」
あの会長が、ちょっと俺を気遣ったような事言ってる……
これ、俺は本当に老けてるってことか?
え、頭髪とかまだ全然大丈夫だと思ってるんだけど、実はマズい状況?
帰ったら桃花に頭皮チェックさせよう。
「しかし、こりゃ新聞の見出しがまた派手にならぁな。もし、午後の対局に勝てば、三段リーグ始まって以来の全勝抜けか」
「しかも一期抜けですからね」
「三段リーグでは相手も、文字通り命懸けで一局一局向かってくるから、一つや二つは相手の気迫や殺気に呑まれて勝ちを落としたりするもんだがな。ましてや、中学2年生の女の子だぞ? どんな胆力だよ」
北野会長も信じられないという様子で、虚空を見上げる。
おそらく、自身の三段リーグ時代を思い出しているのだろう。
「あの子は、こういうプレッシャーのかかる場面や、相手にとって大事な対局である時こそ燃える
「タイトル戦向きの気質だわなぁ」
「ええ。恐ろしいほどに」
前回の例会、四段昇段を確定させた対局時に早指しで相手を攻め立てたのも、相手がそういう挑発に乗る相手だと思ったからこそ採用した戦法だと、俺が後日訊ねた時に、桃花は事も無げに答えた。
地力の棋力も高いのに、盤面だけでなく男の人間心理まで掌握した上で攻め立てるとは、えげつない……
きっと、桃花の前回の対局相手は、悔やまれ後引く負けだと刻み込まれただろう。
『大目標の達成のために使える物は何でも使いますよ。対局相手に、私が女だからと油断してくれる甘さがあるなら、そこを容赦なく突きます。命をかけたやり取りなんだから、男も女もないのにね』
妖しく笑う桃花の言う大目標とは、無論、名人になること。
今日の三段リーグ最終日は、彼女にとって通過点でしかない。
通過点だからこそ、勢いを落とさずに駆け抜け、全てを踏みつぶしていく。
まさに、他の三段リーグ奨励会員にとっては、災害にあったようなものだ。
いや、或いは後年、自分はあの桃花名人と三段リーグで相まみえた事を生涯の自慢話にするのか?
自分の凡人らしい発想に思わず苦笑いしつつ、俺は昼食を外で食べるために会長室を後にした。
無いとは思うが、会館内で闘気を纏ったままであろう桃花に出くわさないために。
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