第5局 どうしよっかな~ 困ったな~

「ねぇ~ 機嫌直してくださいよ、師匠ぅ~」


 不審者騒動が終わった学校からの帰り道。

 俺がツカツカと早歩きで歩いている後ろを、桃花がトトトッと小走りで追いかけてくる。


「ねぇってばぁ~ 師匠が私の彼氏うんぬんは、ちゃんと私の冗談だってことで、校長先生や鈴ちゃん先生たちも解ってくれたじゃないですか」


「うるせぇ! 師匠を社会的に抹殺しようとしやがって!」


 折角、上手い事、話が落着しかけたところに、桃花が特大の爆弾を投下しやがったので、あの後、色々と弁明するのが大変だった。


 同じマンションに住んでいるというのが、疑惑に余計に拍車をかけたようだ。


 不審者疑惑なら、まだ笑い話で済んだけど、未成年淫行疑惑とか、マジで笑えないからな!


「たとえ師匠が世界中を敵に回したとしても、私は決して見捨てないから大丈夫ですよ。師匠は家で大切に最期まで飼います」


「世界中を敵に回すって、お前は俺に何をやらせるつもりだ⁉ あと、飼うって何だよ!?」


 怖いわ、この弟子。


 しかも、これだけマスコミでも注目されている桃花なら、本当に俺一人くらいなら社会的に抹殺できる力があるというのが恐ろしい。


 ただのモブ棋士と、美少女中学生棋士。


 どちらの言い分を世間が信じるか、言うまでもないことだろう。


「第一、なんで彼氏だなんてふざけて紹介したんだ」


「あ、彼氏よりフィアンセと紹介した方が良かったですか? もう長い付き合いですし、交際ゼロ日婚でも私は構わないので、それでも良いですが」


「そこに対する苦情じゃないわ!」


 桃花の歳で婚約とか現代日本にねぇよ!

 おまけに師匠と弟子の関係じゃ、下衆の勘繰りをされるのが目に見えている。


「まぁ、その辺の事は将来の検討課題とするとして、正直な話としては、師匠を彼氏と紹介したのは男除けの目的もありました」


「男除け?」


 ちょっと意味が解らなくて、俺は思わず桃花に聞き返す。


「ほら、私って中2の1月という変な時期にこの中学校に来た、謎の美少女転校生じゃないですか」

「自分の事を臆面もなく、美少女転校生と表(ひょう)せる図太さは、プロ棋士向きだと評価してやろう」


「飛び切り可愛くて明るくて、勉強も運動も出来て、そりゃ大層モテるわけです」

「俺に茶化されても尚踏み込めるのは、弟子ながら尊敬するわ」


「客観的な戦力分析です。そんな私に、昨日、天才女子中学生プロ棋士という肩書まで加わってしまった訳です。それに伴い、私の何が一層増しましたか? はい! 誠くん! 答えて」


 再三、カウンターを仕掛けているのにちっとも崩れる様子の無い弟子は、まるで教養番組のMCが生徒役の出演者に話を振るように俺に質問を投げかけてくる。


「師匠の事を下の名前呼びするな。桃花がプロ棋士になって増したもの? うーん、何だろ……鬱陶しさ?」


「正解は、モテモテ度がさらに……って、師匠ひどい!」


 そんな誘いウケするような質問に、真面目に答えてられるか。


「ふふ~ん、そんな事言っていいんですか師匠? 私、この間、3年生のサッカー部の下キャプテンの人に連絡先を渡されたんですよ? その前は、成績オール5の生徒会長にも渡されたな~。2人共、将棋に最近興味があるから、今度ゆっくり話をしようって言われてるんですよね~」


「ふ~~ん」


 俺は一切興味が無いので、道すがらの店に視線を移す。


 お、こんな所に、個人店の魚屋がある。

 物が良さそうだし、今度買いに来よう。


「どうしよっかな~ 困ったな~」


 チラチラッと俺の反応が気になるのか、こちらの様子を窺いながら、桃花はスマホと俺に忙しく交互に視線を送る。


 お、切り身の刺身でも売ってる。

 魚屋の刺身って物が良くて美味しんだよな。


「ほぉ~~。将棋の普及は、プロ棋士として重要な仕事だからな。励めよ弟子よ」


「そうじゃないでしょ師匠!」


 ふんっ、こちとら大人なんだ。


 学生の時分ならともかく、たかだか一中学校の生徒会長だのサッカー部のエース様なんぞに一々心乱されるかよ。


 俺に嫉妬させる作戦が、まんまと失敗に終わった桃花の膨れっ面を眺めながら、俺は師匠としても大人としても、少々大人げないが、してやったりという気分だった。


 この時に、俺が精神的優位に立ったような気分でいたのは、年齢差的なものもあったのかもしれないが、それ以上に


『桃花は、俺に惚れている』


 という、好き♪好き♪ とそれこそ何年間も好意を向けられている側の余裕から来るものであるという事を、俺は大分後になってから気付くことになる。




◇◇◇◆◇◇◇




(カチカチッ)


 自分の家に戻った俺は、シャワーを浴びたら一息つく間もなく書斎のパソコンデスクに向かっていた。


 決してブラウジングで遊んでいる訳ではない。

 れっきとした将棋の研究だ。


 将棋の研究と言うと、畳の部屋で、棋譜の書いた紙を片手に将棋盤の前で駒をパチリ! というイメージだろうが、そんなのは今や昔。

現代将棋においては、この文明の利器たるデスクトップパソコンが、棋士の主たる研究道具だ。


 そのお値段は、何と軽自動車が買えちゃうくらい!


 間違いなく俺の家の中で一番高価な物だ。


 もし、マンションが火事になったら、俺は、いの一番にこのタワー型デスクトップパソコンを持って逃げなくてはならない。


 重すぎて無理だけど……


「し~しょう!」


「わっ、びっくりした! 急になんだよ」


 パソコンモニターに向かって黙考していたら、突然首に桃花が抱き着くように両腕を絡めてきて、心臓が飛び跳ねた。


「さっきから何度も呼んでましたよ。いつものように聞こえなかったんでしょ」

「ああ……そうか、すまん」


 俺は研究中に思考の海に沈んでいる間は、五感の能力が著しく落ちる。


「まぁ、私も集中してたら一緒だから、お互い様ですよ師匠」


 そう言いながら、桃花は当然のように、デスクチェアに座っている俺の膝の上に乗っかってくる。

 セーラー服を脱いでセーターにジーンズというラフな格好に、髪はシュシュで簡単に束ねた部屋着の装いだが、至近距離までくると、フワリと良い香りが鼻孔をくすぐる。


「重い……」

「レディに向かって重いとか言わないでください師匠」


 男の本能を理性でねじ伏せるために叩いた軽口を、桃花が打ち返す。


「それで、この盤面は、今年度の名人戦第一局のものですか?」


「よく盤面を一目見ただけで解るな」

「私もこの106手目で名人が挑戦者に下駄を預けた手は気になりましたから」


 俺の膝の上で、桃花は真剣な顔でパソコンに映る盤面を凝視する。


「終盤でこの手を指す胆力は、さすが名人という感じだな」


「AI的には、この時だけ挑戦者に形勢が振れてるんですよね。何で、名人はこんな手を指したんでしょう?」


 桃花は、AIの形勢判断の折れ線グラフで、 この106手目で終始名人側にじわじわ傾いていた形勢が、挑戦者側に振れているのを見ながら呟いた


「秒読みになっている対戦相手では、この手に対して最善手は指せないと名人は踏んだんだろうな」


「確かにこれを秒読みで読み切るのは難しいかもですね。しかし、これはただの悪手にも見えますが?」


「名人だから何か裏があると、常に警戒態勢を緩めずに終盤まで辿り着いた挑戦者を、パニックに陥れるための手だよ。結果、相手は攻めれば良い所を、弱気になって守りに入ってしまった。そして、その隙に自陣を整えた名人の攻勢が始まって、これが事実上の敗着の一手になったと」


「ふ~ん。やっぱり師匠と一緒に検討すると勉強になります。人間の心の揺れ動きとかも解説に乗ってるから」


「お前も将棋指しなら、解るだろ?」


「わたし、その辺は皆さんと……他の棋士と感覚がどうやら違うんですよね。どれだけ自陣が燃えようが、配下という手足がもがれようが、常にフラットに指せますから」


「……そうか」


 俺は桃花の、顔に似合わぬ物騒な呟きに、何とも言えぬ曖昧な返事をした。


 実際に、俺には見えていない景色なので、師匠とは言え、俺がこの天才に言ってやれることは何もないのだ。


 薄氷の上を進めば歩みが縮こまる。

断崖絶壁の細い道を歩かされれば足がすくむ。


 人間として当たり前とも言える感情が、桃花には無いのだ。


 矯正という言葉には「正しい」という漢字が使われているが、勝負の世界では強さ、勝者こそが正道なのだから、凡人が型にはめるような教育を天才に施すことは明確に悪となる。


 感想を述べ合い、俺はパソコンの将棋ソフトを閉じた。

 それを合図に、将棋の話は終了となる。


「さて、そろそろ夕飯でも作るか」

「それなら私が作りましたよ」


「マジか⁉ 悪いな」

「私のお父さんお母さんから、また野菜が届きましたからね。明日から忙しいですし、今日の内に処理しておかないとです。今日はたっぷり野菜スープです」


「それしか桃花はまだ作れないからな」

「野菜をたっぷり食べてれば、とりあえず人生は何とかなるっていうのが、飛龍家の教えなので」


 1人暮らしをするに際して、野菜スープのレシピはお母さんから教え込まれたらしい。


「そういえば、明日って何の予定だっけ?」


 俺はスマホのスケジュールアプリを開く。


「もう! 明日は私と師匠の東京お泊りデート旅行でしょ」


「いや、対局の前乗りなだけだろ! しかも、お前の三段リーグ最終日の! って、三段リーグ最終日直前なのに、お前は普通に学校行ったり、ご飯作ってたのか⁉」


「驚く所、そこですか? どうせ私、三段リーグ1位突破で昇段決まってますし。緊張なんて皆無ですよ」


 俺が昇段が決まりそうな期の三段リーグ最終対局直前なんて、緊張し過ぎてゲロ吐きそうだったのに……


 あっけらかんとして、野菜スープをお椀に盛り付ける桃花を見ながら、あらためて、うちの弟子は化け物だなと思ったのであった。

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