第3局 弟子との朝

「起きろ桃花~ 朝ごはんだぞ」


「むにゃむにゃ……あと30分……」

「遅刻するぞ。今日は対局ないんだから学校だろ」


 そう言いながら、俺は桃花のベッドの掛け布団を引っぺがす。


「ひゃ~ 寒い~ 襲われる~」


 桃花がコタツの中の猫のように、自身の身体を抱きしめ丸まりながら、ふざける。


「アホ言ってないで、俺の部屋へさっさと来い」


「えっ! 俺の部屋に来いって……俺様師匠に振り回される弟子の私とか、大好物すぎてゾクゾクしちゃう……本が出たら絶対、紙書籍と電子書籍版と両方買っちゃう……」


「そんなニッチなシチュエーションの本が売れるか! 朝食出来てるから早く来い」


 この掛け合いも、ここ2か月ほどですっかりお馴染みなものになった。

 もそもそと着替え始めた桃花の気配を背中に、俺は自分の部屋へ戻る。


 桃花からは、部屋の合い鍵を持たされている。


 最初に部屋の合い鍵を持たされた時は、言っても桃花も年頃の女の子なので、緊急の時にしか使わないつもりだったのだが、


『全然大丈夫。私は師匠の部屋にガンガン合い鍵使って出入りするから、師匠もそうして』


 と、桃花はあっけらかんとしたものだった。


 いや、俺の方は全然大丈夫じゃないんだが……


俺だって25歳の若く血気盛んなお年頃の男性な訳で、麗しい女性とお近づきになって、あわよくば家に連れ込んで良い雰囲気になって、そして……




 ……ごめんなさい。ホラ吹きました。


 そんな相手、俺にはいません……


 将棋の世界って、男の方が圧倒的に多いから出会いが無いんだよ……。


 無いんだよ‼


 誰へ向けたものでもない言い訳を内心で述べながら、俺はダイニングテーブルに並んだトーストとベーコンエッグとサラダが乗ったプレートの横に、桃花の部屋に起こしに行く前にセットしたコーヒーメーカーから、カップへコーヒーを注ぐ。


「おはよ、師匠」

「ん、おはよう桃花。コーヒー入ってるぞ」


 いつものセーラー服にカーディガンを羽織った装いに着替えた桃花が、自分の席に座る。


「ふへへっ、何か今の掛け合い、ラブラブ期間が少し落ち着いて来た新婚さんっぽいね。でも、このペアマグカップを使い続けているのが、まだまだラブラブな所を表してるね」


 そう言いながら、桃花はお揃いの柄で、水色とピンク色のカップを指先で軽く弾きながら、ニヤニヤする。


「お前が引っ越し祝いに買ってくれって、百貨店で駄々こねたからだろ。子供みたいに、床に寝転んで大騒ぎして」


「あれは、我ながら羞恥心をかなぐり捨てた捨て身だったね。けど、師匠は優しいから、最終的には折れて買ってくれるって信じてた」


 少し長いカーディガンの袖の裾で口元を隠しながら、照れ笑いを浮かべる桃花は嬉しそうにカップに口をつける。


 いや、あれは百貨店で他のお客さんの手前、恥ずかし過ぎたからだけどな。


 甘やかしすぎるのも良くないが、桃花は14歳の身空で単身実家を出てきた直後だったので、そこはつい甘くなってしまった。


「食べ終わったら食器、水につけといてくれよ。じゃあ、俺は行くから」

「毎朝、精が出ますね~師匠。今日はランニングの日ですか?」


 桃花が、長袖Tシャツにトレーニング用タイツという出で立ちの俺を見ながら、トーストをちぎって口に放り込む。


「ああ。8kmくらい走ってくる」

「うひ~ よくそんなに走れますね」


「棋士は在宅仕事だから、意識して運動しないと。対局は体力仕事だからな」

「それはありますね~」


「桃花も一緒に走るか?」

「私じゃ師匠のペースについて行けないので遠慮しておきます。私は球技スポーツは好きですが、ただ走ったりするのはあんまり好きじゃないんです」


 桃花も細身だから、長距離走は向いていると思うんだがな。

 勿体ない。


「マラソン大会でタイムが上がったりすると楽しいぞ。将棋と一緒で、己との戦いだからな」


「その点は、師匠と私は相容れないですね。私は、将棋はどこまで行っても、戦場での相手との殺し合いでしかないと思ってますから」


 朝食を優雅に食べる女子中学生には似つかわしくない物騒な物言いだが、棋士というのは、将棋に対しての自論や一家言を持っている。


 それは、自分だけの物で、師匠に対してすら譲れないものだ。

そういう自分の芯を持っていないと、そもそもプロ棋士になんてなれていない。


「じゃあ、学校行く時に鍵かけて出てくれよ。じゃあな」


 このまま将棋論を語り合うと長くなるし、喧嘩に発展しかねないので、俺は早々に話を切り上げて家を出る。


「行ってらっしゃい師匠」


 桃花もその辺りは弁えているので、特に俺の事を引き留めずに俺の背中を見送った。




◇◇◇◆◇◇◇




「ああ……やっちまった……」


 充実した朝ランを終えて汗びっしょりになって帰宅した俺は、自宅マンションのドアの前で頭を抱えてしゃがみ込むことになる。


 家のカギを持って行き忘れたのだ。


「カギは……ちゃんとかかってるよな……そうだよな」


 一縷の望みをかけてドアノブに手を掛けるが、ガチャリと開いたりはしなかった。


 なぜなら、俺が出がけに桃花にちゃんと施錠するように頼んだからな。

 忠実に実行してくれたんだな弟子よ。


 優秀じゃん……はぁ……


「どうするかな~」


 今持っている物は、スマホとスマホケースにもしものために仕込んでいた5千円札。


 現金もあるしスマホの電子決済も使えるから、桃花が学校が終わって帰ってくるまで、カフェなどで時間を潰すことは可能と言えば可能だ。


 だが、こんな汗だくの奴、カフェに行ったら迷惑か?

それに、暇を潰すものも無いし、充電コードもないからスマホも1日は充電がもたなそうだ。


 そうなると、マンガ喫茶か? レンタルシャワーも借りれるし、スマホの充電もできそうだ。


 しかし、今日は別に休養日という訳ではないし、マンガを読みふけるだけで1日を潰すって言うのもな……。


 先日、桃花の名人の阻止を心に誓ったというのに、早速将棋の研究をサボっていては世話ない。


「となると、行くしかないか……」


 俺はため息をつきながら、桃花の通う中学校へ向かった。

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