第82話 翠のお嬢様
「お~、さすが大企業のパーティ。料理も豪華だな」
ようやく1人になり、ゆっくりとビュッフェのメニューを眺められる。
「夏だから沖縄料理か。ほぉ、ジーマーミ―豆腐の揚げ出し豆腐って珍しい」
流石は一流企業のパーティ。
定番のローストビーフやお寿司から、変わった創作料理まで色々と揃えられている。
自分で作るのは手間がかかる料理だったり、初めて聞くような料理をお皿に盛って行く。
やっぱり、ビュッフェは自分で自分が食べたい料理を選ぶのが醍醐味だよな。
「さ~て、勝手に抜けてきたから、そろそろ優月たちの所に戻って」
(クイッ)
ん? クイッ?
シャツの裾を引っ張られた感触に、振り向く。
「あ、あの……」
振り向いた先には10歳くらいのドレスを着た少女が立っていた。
翡翠の色をした目の上に、理知的なメタルフレームの眼鏡を乗せたドレス姿の少女が、俺のシャツの裾をつまんでいた。
「あの……私のこと、憶えてますか? 一心お兄ちゃん」
自身の誰何を尋ねる、期待と不安が半々に入り混じった少女のエメラルドグリーンの目と、特徴的なライムグリーンのボブカットの髪を見て、昔の記憶が想起される。
「もちろん。スイちゃんだよね」
「は……はい! そうです、
彼女の翠色の眼に宿る不安が一気に霧が晴れるように消え、喜色が目から表情、そして身体全体に広がっていくさまが見て取れた。
「大きくなったな~ スイちゃん。前のパーティで会った頃は、まだ幼稚園くらいの歳だったから。苗字の通り、まさに
「そういう、一心お兄ちゃんも大きくなりました」
「アハハッ、そうだね。けど、5年も前の事なのに、よく俺の事を憶えてたね翠は」
まだ10歳くらいの少女にとって、5年間という期間は今まで生きて来た年月の半分を占めるというのに。パーティで一度遊んでくれたお兄ちゃんの事なんて覚えているものだろうか?
「忘れる訳ないです。あの日の事は、今でも鮮明に思い出せます。一心お兄ちゃん、良ければもっと静かな所でお話しませんか? 関係者しか入れない、秘密の場所があるんです」
「俺が入ってもいいの?」
「はい。創業者一族の私がいるのですから」
お任せあれとばかりに、翠がエッヘンと胸を張った。
「お~、翠はオーガ化学工業の創業者一族のお嬢様だもんね」
「もぉ、お嬢様だなんて茶化さないでください一心お兄ちゃん」
いや、実際お嬢様だしね。
ちなみに、苗字の
コジカ読みでは企業イメージ的に舐められそうという事で、創業者がオーガという社名を採用したらしい。
「せっかくのお嬢様のお誘い、謹んでお受けします」
「もう。だから、お嬢様扱いはやめてください。ほら、こっちです」
待ちきれないとばかりに俺の手を引く少女の手の小ささを感じながら、子供ってすぐに大きくなっちゃうんだなと思いながら、翠の後を大人しくついていった。
◇◇◇◆◇◇◇
「あ、ここは」
翠に連れて来られたのは、噴水のある綺麗な庭園だった。
ゲストは入れないエリアらしく、周りには人がいない。
「気付きましたか? 5年前に、こっそり2人で入った庭園です」
「ここで、鬼ごっこしたよね」
「はい。あの時は、子供のようにはしゃいでました」
まるで昔を懐かしむような遠い目をする少女だが、
「って、今も子供じゃん」
「そうでした」
テヘッと舌を出すさまは、年相応の少女だ。
「まぁ、翠の場合は周りが子供扱いしてくれないのか」
「そうですね……会社の研究所で研究に明け暮れる日々なので」
小鹿翠は天才少女だ。
10歳にして、すでに飛び級でアメリカの大学で修士課程を修了し、今はオーガ化学工業の基礎化学研究所に出入りしているという翠の近況を、俺は母さん伝いに聞いていた。
「うちの母さんも翠にお世話になってるみたいで」
「いえ、そんな。私の方こそ、花香さんにはプラントの現場責任者として頭が上がらなくて……っていうか、一心お兄ちゃん止めてください。何だか、会社の人みたいです」
ペコペコと頭を下げ合う2人。
確かに、やっている事は子供っぽくないな。
俺だって、世間的にはまだ高校生のガキンチョだし。
「俺も、この夏休みから、色々と仕事みたいなことを始めたんだ」
「そうなんですか? 仕事ってどんな事を?」
俺は、学童保育所の移転に奔走した話や、この夏の無料塾の立上げや運営の話を語った。
普通の女子小学生の興味がありそうな話では無いと思うのだが、隣で翠は、興味深そうにウンウンと頷きながら俺の話を聞いてくれた。
「凄いです。一心お兄ちゃん」
「いや、翠の方が凄いでしょ。こんな歳で、大学まで卒業しちゃってさ」
キラキラと、無垢な尊敬の眼を向けてくる翠に、俺は照れ隠しで褒め返す。
「私は、小鹿家という恵まれた環境にいましたし、研究所でもまだまだ勉強中の身です。だから、既に社会に成果を還元している一心お兄ちゃんの方が凄いです」
流石、大学飛び級卒業だ。
10歳の女の子とは思えないほど論理的に褒めてくるな。
「お、おう……参った。俺の降参だ」
翠の褒め殺しに、俺は白旗を上げる。
「それで、あの……一心お兄ちゃん。お願いがあるんですけど」
横に座った翠が、言いにくそうにモジモジする。
こういう姿は、年相応の女の子で可愛いな。
思わず顔がほころんでしまう。
「翠のお願いか。いいよ」
「本当ですか⁉ じゃあ」
「あ、一心いた~!」
翠がお願いの内容を言いかけた所で、インターセプトが入る。
「おう、優月たち」
「もう、一心ったら。目を離した隙にいなくなってるんだから心配したのよ」
「料理の場所にもいないから心配したよイッ君。私、事務所の契約金が入ったから、」
「心配しすぎだろ。別に迷子になってた訳じゃないんだから」
優月も琥珀姉ぇも、男子高校生相手に過保護すぎるだろ。
「瑠璃っ子の言った通りだったな」
「パーティ会場に居ないとなると、関係者だけが入れるエリアにお兄ちゃんが連れ込まれていると踏んだの。で、関係者しか入れないエリアとなると、一緒に居るのはやっぱり翠お嬢様だったんですね」
「……どうも、瑠璃さん」
翠の身体が少し強張ったのが、隣り合って座って触れる翠の腕から伝わった。
「あら、私の事も、瑠璃お姉ちゃんって呼んでいいんですよ?」
「いえ……大丈夫です」
そう言えば、翠って人見知りだったな。
5年前の5歳の時にも、何故か俺にだけ懐いていたんだった。
「翠お嬢様。パーティ会場で、お父様とお母様がお探しでしたよ」
母さんの勤め先の創業者一族であり、また、所属する芸能事務所のスポンサー様という事で、瑠璃も恭しい態度で翠に接している。
「……私、パーティの雰囲気って得意じゃないんです」
「ええ、知ってます。でも、創業者一族として翠お嬢様も、ゲストをもてなす御立場なのでは?」
顔をしかめる翠に、瑠璃がニッコリと貼りつけたようなスマイルで答える。
瑠璃自身も、芸能事務所へのスポンサーへの義理を果たしているので、こう言われると翠としても辛い。
「……そ、そうですけど」
「おい、瑠璃。翠は、まだ子供なんだから」
「一心お兄ちゃん……」
つい、瑠璃からの正論パンチから庇い立てする俺を、翠が感激とばかりにポ~ッとした顔で俺の顔を見上げる。
が、瑠璃の追撃は止まない。
「大いなる才能を持つ者は、大きな賞賛を受ける。ただ、それは付随する責任もセット。それは子供だからと免責されない。それに、お兄ちゃん、その子は」
「もう嫌です! わ、私は……私は望んでこの家に生まれて来た訳じゃないのに!」
瑠璃の追撃に耐えられなくなったのか、翠は大声で叫ぶと、俺たちの元から駆け出して行ってしまう。
「あ、翠! 待って! そんなドレス姿で走ると危ないよ!」
スタートは出遅れたとはいえ、所詮は10歳の女の子と男子高校生。
彼我の距離なんて簡単に追いつけると、走り出した時の俺は思っていた。
翠の髪が揺れる後ろ姿が間近に迫った時に、グニャリと目の前の空間が歪む。
『ここは、セックスしないと出られない部屋です。脱出するには、セックスをする必要があります』
という聞きなれた機械的な音声は響かなかったが、俺はこの白い空間に大変に見覚えがあった。
「一心お兄ちゃん……」
「翠……」
ドレス姿の少女は、不安げに俺の顔を見上げていた。
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