第26話 汗くさい道着とエロいキス
「6! 7! 8! 9! 10!」
「エイッ!」
静かな板張りの部屋に、俺の号令と珠里の掛け声が響く。
「うん、正拳突きのキレがいいな。どうやら、学校サボって正拳突きしまくってたのは本当だったみたいだな」
「ハァハァ……当然」
そう言って、珠里が額の汗を、道着の袖で拭う。
「じゃあ、次は組手練習な。ついて来いよ」
「わ……わかった」
空手の組手練習は、かなりキツイ。
試合時間は短いから、外から見るとそうでもないように見えるが、常に動きながら技を繰り出していると、あっという間に心拍が限界を迎える。
「ぜひゅ~。一心……ちょっとタンマ。限界」
「OK、休憩な。ほい、ドリンク」
「ありがと」
珠里の息が上がった所で、いったん休憩にする。
「ま、2ケ月のブランクならこんなもんだな」
「スタミナ切れが思った以上に早くてきつい……稽古サボってたツケだね」
スポドリを一気にボトルの半分くらいがぶ飲みした珠里が、口元を拭いながら笑う。
「よし休憩終わり。次は型の練習な」
「え、もう? もうちょっと休もうぜ」
「ほら。短期集中で元の練度に戻すんだろ? この部屋でいくら過ごしても、現実世界の時間は経過しないとは言え、ダラダラやってたら身に着くものも身に着かないぞ」
「一心の鬼~」
「ほら立つ」
板の間にへたり込んでいる珠里に、手を差し伸べる。
「はーい。って、隙あり!」
「わむっ!?」
疲労でへたり込んでいたはずの珠里は、俺の手を掴むと同時に勢いよく立ち上がり、そのまま俺の唇を奪う。
「こら、珠里。稽古中にハレンチだろ」
「休憩中だし、ここは道場じゃないじゃん」
抗議する俺に、見慣れた道着姿の珠里が笑いかける。
『ここは、セックスしないと出られない部屋です。脱出するには、セックスをする必要があります』
「ほら」
「本当、このアナウンスは、図ったようなタイミングで流れるな」
「はい、隙あり」
「むちゅっ!」
アナウンスに気が抜けた所を、またしても唇を奪われる。
こんな所で、空手の組手での相手の間合いや隙をつく技術を悪用すんな。
「一心、今日は隙だらけだよ。サボってた私に隙を掴まれるようじゃまだまだだね」
「し、仕方ねぇだろ。キスされたら動揺するし、その……見慣れた道着姿で珠里が迫ってくると、つい、いつもより動揺するっていうか」
「ふーん……神聖な道場と道着姿なのに、チューしちゃうことに背徳を感じてるんだ一心は」
いたずらっぽく笑う珠里から顔を背ける。
見慣れた汗くさい道着と、エロいキス。
本来は同居しない日常と非日常が合わさることに、俺は戸惑いを禁じ得ない。
そして、そんな精神状態では当然。
「エイッ!」
「むにゅ! だから、止めろっての。こんな事ばっかりしてたら、いざ現実の道場に戻った時に、うっかりやっちゃうだろ」
キス魔の珠里には負けっぱなしになる訳で。
「もしキスしてる所を見られたらお父さん、怒るかな?」
「ほら。そうならないように、稽古して遅れを取り戻すぞ。ちゃんと俺が栄養管理もする短期集中合宿なんだからな」
「せっかくこの部屋に来たんだから、私はこうして、前みたいにチュッチュ生活がしたいのに」
「安心しろ。疲れ果てて、そんな気が起きないくらい、追い込んでやるからな」
「ひょえ~~っ!」
珠里と俺のマンツーマン空手合宿inセックスしないと出られない部屋は、こうして幕開けした。
◇◇◇◆◇◇◇
「珠里姉ぇちゃ~ん」
「お~、久しぶり。元気してたか坊主ども~」
道場に久しぶりに顔を出した珠里に、幼年部の子供たちが群がる。
「ほら、そろそろ始まるぞ。整列して正座~!」
「はい! 豊島指導員!」
ワチャワチャしてるガキンチョどもを号令一下で整列させる。
「順突き、逆突き用意! 1!」
「「「「えいっ!」」」」」
前方で号令をかけながら、珠里が手本となり突きを繰り出す。
そのキレは、数か月のサボりを感じさせないどころか、むしろ進化しているようにすら見える。
俺は、後方の子供たちの様子を見ながら、こっそりと珠里の様子を窺うが、心配は杞憂のようだ。
「うう……珠里が、やっと元に戻ってくれた」
「師範が泣いてると子供たちが動揺するんで、影で泣いてください」
俺の背中の影ですすり泣く、師範に俺はこっそりとハンドタオルを渡す。
クマみたいな風貌の大男が男泣きに泣いているのは、中々にシュールな絵面だ。
「ありがとうな一心。道を外れかけた珠里のことを引き戻してくれて」
「俺は何もしてないですよ。珠里が勝手に立ち直っただけです」
そもそも珠里が学校も道場もサボり気味になっていたのは、俺が原因だったわけだし。
感謝されてもな~ というのが、正直なところだ。
「しかし、珠里は何だか安定しているな」
「技のキレですか? 珠里はやっぱり俺より空手の才能ありますからね」
「いや、精神的な物だ。最近の珠里は、常にどこかイライラしていたが、最近は穏やかになった。何か、心落ち着く、精神統一用のルーティンでも見つけたのだろうか?」
「さー、なんでしょうねー」
ごめんなさい師範。
あなたの娘さんはキス魔で、あの部屋で俺とキスしまくってました。
それが、精神安定の秘訣です。
でも、お父さんのあなたにそんな事言えないです。
「ごめんください」
「はい」
勝手に気まずい空気になっていたが、タイミング良く来客があったので、俺は道場の正面入口へ向かう。
「稽古の見学希望の方でしょうか?」
「あ、いえ。そうではなくて、本日はお願い事がありまして……」
そう言って、痩せてひょろ長い体躯に眼鏡をかけた青年は、アセアセと名刺を取り出してくる。
「戸辺篤志さん。学童保育所ムーンチャイルドの指導員さん……学童保育?」
「学童保育所とは、両親が共働きだったりシングル家庭のお子さんを預かる場所です。対象は小学生です」
要は、保育園の小学生版か。
うちの両親は共働きだが、父さんは在宅勤務だったから、当時の俺はそういう所には通わなかった。そう言えば、何人かの同級生が通っていたな。
「なるほど。それで、そんな学童保育所の方がどういったご用向きで?」
「実は、うちの学童保育所なんですが、建物オーナーの都合で退去をしなくてはならなくなったんです。幸い転居場所は仮押さえできたのですが、前の入居者さんとの契約の関係上、空白期間が2か月ほどできてしまうんです。それも、よりにもよって夏休みの子供たちが朝から夕方までいる時期に」
「それは大変そうですね」
たしかに、子供は夏休みだが、働いている大人も同じように休むわけにはいかないからな。
父さんも、夏休み期間は子供たちが家にいるから、昼食をちゃんと作らなきゃいけなくて大変だと、よくボヤいていた。
「ええ。なので、今、必死に臨時で借りれる場所がないか探している最中で、こちらの道場を一時的に借りれないものかと思いまして、お願いに上がった次第です」
「わかりました。道場の責任者を連れてまいりますので、少々お待ちください」
「お願いします」
深々と頭を下げる礼儀正しい青年の願いを受けて、俺は道場の片隅でまだすすり泣いているクマを呼びに行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます