第14話 夜の邂逅
海野がやらかしたのは、ファイルの置き換えと、バックアップの削除だった。
海野は、水曜日の午前中、作業ミスをして、グループのGitHub(ソフトウェアのコードや部品の目録付き倉庫のようなもの)全体を、自分のローカルのGitHubと置き換えてしまったのだ。
それに気づいた海野は、これはまずいと言う思いからだろうか、グループ全体のGitHubを削除し、昨日までのバックアップと置き換えようとした。そうすれば、最悪午前中の作業が消えるだけで済む。
ところが、どう操作したらそうなるのかよくわからないが、海野は、昨日終了時点のバックアップも削除してしまったのだ。
つまり、残っているのは、月曜日終了時点のコードになる。当社は毎晩、夜中に自動でバックアップを取っているからだ。
いずれにせよ、火曜日全体と、それから水曜日の午前中の作業が、全部パーになってしまったのだ。
おそらく、時間をかけてリカバリーする事は不可能ではない。ただし、100%、リカバリーできる保証がないのだ。
なぜなら、海野がどのようにしてデータを吹っ飛ばしたのか、本人すらわかっていないからだ。
そのため、緊急事態であるから、部の中の他のメンバーが、消えたデータのリカバリーに努めるとともに、火曜日の作業のデータはなくなったものと思い、火曜日の作業からやり直すことになった。
これでまる一日半分の遅延が生じている。データの一部は、作業した人間の個人のGithubやローカルのハードディスクに残っているのだが、全てではない。
結局、水曜日のうちに、失ったデータの復旧を諦めることとなった。同じ作業のやり直しは、少しスムーズに行くはずだが、手間が減った分、モチベーションが下がっていて結局あまり進まない。
水曜日の終業時には作業がが完了せず、俺は、関係者に二時間の残業を命じざるを得なかった。
ただ、海野がまたやらかすと困るので帰宅させる。また派遣のみさきも当然帰宅させた。
夜8時の段階で、何とか火曜日と水曜日午前のデータの再構成が済んだ。後は水曜日午後の作業予定分も、木曜日中に取り戻せば良いが、どうしても納品が金曜日になるし、その辺の作業は、やはり事務作業が丁寧なみさきが居てくれた方が助かる。
俺は、8時に皆を家に帰らせ、個人的にバックアップを取り直しながら、今後のことを考える。
やはり俺がいなければ、この会社はうまく回らないかもしれないな、と思う一方で、こんなスタッフやリソースで、こんな作業する位だったら、株式会社童貞で今の5割以上高い給料をもらって、楽しく仕事をしたほうがいいんじゃないかとも思えるようになった。
9時前に、俺は会社を出た。気力がないので、タクシーに乗りマンションへと帰った。
入り口で、ちょうど佐藤彼方さんと出くわす。
お互いにびっくりした。
「あら、今お帰りですか?」
彼女が聞いてくるので、
「ええ、仕事が長引いて、疲れたのでタクシーで帰ってきました。」
俺は正直に答える。
「夕食はもうお済みになったんですか?」
彼女が聞く。
「いえそんな暇はありませんでした。部屋に戻って、レトルトのカレーでも食べますよ。」
俺は正直に言った。
あ、カレーはこの前食ったばっかりだったな。他になにがあるっけ?
「それなら、そこのファミレスで、一緒に夕食いかがですか?」
佐藤さんが聞いてくる。ファミレスは、マンションの向かい側の3軒目にある。
徒歩0分の距離だ。
「あぁ、いいですね。ムードも何もありませんが。」
俺は答える。とにかく疲れて腹が減っているのだ。
佐藤さんは言う。
「本当なら、何か作って差し上げたいところですが、ご覧の通り私も今帰ってきたところなので、今日はまだ何もないんです。」
まあ、お互いにそうならちょうどいいか。
「では、行きましょう。」
俺たちはファミレスに入る。
最近はウェイター、ウェイトレスの数も減っている。
これは夜だからではなくて、オーダーをタブレットで行うからだ。
水もセルフサービスになっている。
お互いにタブレットを操作し、俺は生姜焼きセット、彼女はドリアのセットを頼んだ。
お互い疲れていたのが、逆に良かったのかもしれない。
俺たちは、気軽に、仕事の愚痴などをぶつけ合った。
俺は使えない海野のせいで、残業になったこと。
彼女は、ゴールデンウィーク進行なのに、ライターが全然原稿を上げてこなかったことや、出版不況全体についての話だった。
お互いに知らないことが多かったせいだろうか、とても楽しい食事になった。
「やはり、出版業界って大変なんですね。」
と、俺が言うと、
「はい、オールドメディアと呼ばれる出版は、やはりこのままでは立ち行かないですね。だからこそ、メディアミックスで、いろいろな媒体を使って、SNSや動画も効率的に使わないと生き残れないと思っています。」
なるほど。紙を読む人は減ったしな。
「ただ、その前提として、良質なコンテンツを提供するというのがあります。馬鹿な見出しで、ページビューを稼ぐような姑息なことではなく、役に立つ、楽しい記事、あるいはときには、社会や世相おを斬る硬派な記事など、いろいろなコンテンツを充実させて、ターゲットとする顧客層から選んでもらえるような媒体であり続けることを目指しています。」
「とてもしっかりしたお考えですね。素晴らしいです。」
俺が誉める。
「それに比べて、僕なんか、転職しようかどうか迷っているのに。」
すると、
「転職の声がかかると言うのは素晴らしいことだと思いますよ。田中さんの能力を高く評価しているからだと思います。」
と言ってくれた。
そして彼女はこう続ける。
」能力が高い人は、ちゃんと評価されるべきです。私は、取材としていろいろな方を見てきました。
お金儲けを優先する人もたくさん見ていますし、真面目にやっていても会社がなくなってしまった人たちも見ています。」
ちょっとヘビーな話が続く。
だが、まったく不快ではない・
「世の中はなかなか公平には行きません。でも、せめて自分の知っている人は、正当に評価されて、それなりに幸せになってほしいと思っています。多分、田中さんには、正当に評価される資格があります。」
真顔でそう言われて、俺はちょっと照れてしまう。
だが、面はゆい反面、誇らしくもあった。
「佐藤さんは、しっかりした考えをお持ちで、すごい人ですね。完璧と言っていいかもしれません。」
と言うと
「私は、全然完璧なんかじゃありません。
それに、仕事を言い訳にして、まだ独身ですしね。」
彼女がちょっとおどけているので
「それは僕も同じですよ。」
と言って、俺も笑った
そのままマンションへ帰り、エレベーターに乗る。
すると、佐藤さんが、エレベータの中で必要以上にくっついてきているような気がした。
部屋の前まで送ると、彼女が鍵を開けてから、俺の方に向き直り。じっと俺を見つめてきた。彼女の手が、俺の背中に回り、体を押しつけてくる。そして、目を閉じて唇を突き出して来た。
どうしようか迷ったが、ここであまり変なことをして、嫌われてもしょうがない。
と、自分に言い訳する。決して、みさきより感触がなかったからではない。感触の違いは、服が厚いからだよ、きっと。
俺は、彼女の頭に手を乗せて、ぽんぽんと軽くたたくと、
「今日はありがとうございました。」と言った。
これ以上はないと、彼女も察したのだろう。彼女は、おとなしく部屋に戻っていった。
ため息をついて、俺も部屋に戻る。
(なんだかいろいろあったなぁ。)
朝からの部内会議と、
海野のミスと、
みさきとの会議室でののことで、もういっぱいいっぱいだったはずなのに、
佐藤ささんまで(たぶん?)迫ってきているような気がする。
モテ期か?でも、なんだか違うような気がする。やはり女難か。
モヤモヤした気持ちを抱えていると,佐藤さんからLINEが来た。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです。
月曜日は、私も完全オフになったので、拙いながらも私の手料理にしようと思います。5時ぐらいに、部屋にいらしてください。」
そう書いてあって、その後に、変なキャラクターの、「お待ちしてます」と言うスタンプが添えられていた。
これはもしかして…?
でも、多分童貞が下心を持つと、ろくな結果にならないような気がする。
やはり、女難の相なのかな。と俺は思い、「了解」「おやすみなさい」の田中スタンプを送り、床に就いた。
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