第5話 邂逅と回想



株式会社童貞を出ると、その足で俺は大きな本屋に行く。

専門書を見ようと思ったのだ。


転職するなら知識はあった方がいい


クラウド、サーバー、クライアント、データベース、ミドルウェア、動画、Pythonにunityなど。

勉強することは山ほどあるわけで、日本語だけでなく、英語のオライリーの専門書にも手を伸ばす。


いろいろ考えたが、内容は見ないとわからない。結局各分野一冊は買ってみよう。俺はそんな気になっていた。


本代だけで五万円を超えたが、別に気にならない。


俺は本を入れた大きな紙袋を手に下げて、なんとなくウキウキしながらマンションへ戻る。


まだ考えるべきことはたくさんある。


だが株式会社童貞の役員というのも悪くないかもな。


給料も上がるだろうし、部下は優秀。自分でもある程度プログラミングできそうだ。もし真童貞男と仲良くなれたら、彼の個人資産の一部を自由に使えるようになるかも…そういえば、楽連の君谷は個人資産の管理会社を持っていたな。あんな感じで俺も彼の資産を…などと夢が広がる。

 

浮かれながら俺はマンションに戻る。


もう引っ越しのトラックはいなかった。


エレベーターを降りて部屋に行こうとすると,俺の部屋のインターホンを押している人物がいた。


不審者か?

マンションの入り口はオートロックだし,あまり変な人間はいないはずだが,一応警戒しながら声をかけてみる。


「何か御用ですか?」


ドアの前にいたのは、身長が160センチくらいの女性だった。

ポロシャツにデニム,サンダルで、髪の毛は後ろでまとめている。


うすく化粧しているが、今日が土曜日で休みのせいか,派手さはない。

小顔で、やり手のビジネススウーマンという感じだ。


年齢は、まあ俺と同じくらいかもしれない。


肌の張りはそれほど感じない。

落ち着いた雰囲気の女性、と言っておこう。それが無難だ.


[こちらにお住まいの方ですか?」

と彼女は聞いてきた。


俺が黙ってうなずくと、彼女は小さな包みを差し出して言った。


「今度、隣へ越してきた佐藤です。こちらは、つまらないものですが、ご挨拶代わりにお納めください。」


「あぁ、これはどうもご丁寧に……」


と言いながら、俺が受け取ろうとした時、俺が持っていた本の紙袋が、盛大に破れて、中の本が下に落ちてしまった。


俺が慌てて本を拾おうとすると、彼女も手伝ってくれた。


「すみません、とりあえず本だけ家の中に置きますので、ちょっとお待ちください。」


俺はそう言って、何とか本をかき集めて、玄関の鍵を開け、本の山を、靴箱の上のスペースに置いた。

そして俺は、また入り口の外へ出る。


「すみません、慌ててしまい、お見苦しいところをお見せしてしまいました。」

そう言って、頭を下げる。


すると、彼女は

「ずいぶんいろいろお勉強されるんですね。」

と言ってくれた。


「まぁ、全部仕事関連の本ですからね。休みの気分転換を兼ねて、ちょっと買い込んでしまいました。」


俺がそう言ってちょっと笑うと、彼女は


「残念ながら、当社の本はなかったようです。あ、私こういうものです。」

彼女はそう言って、名刺を出してきた。


見ると、「月刊角丸編集部編集主幹 佐藤 彼方」と書いてある。

「かなた」とルビを振ってある。


「角丸書店の方なんですね。とても偉そうな肩書だ。私みたいな一般人が近づけるようなかたじゃなかったですかね。」と言ってみる。


「そんな事はありません。仕事柄、偉い人に会うことはありますが、私は一般人ですよ。」


と、彼女はちょっと恥ずかしそうに答える。


せっかく名刺をもらったんだ。俺も名刺を取り出した。


「ABCクリエイトソフトの、田中です。お隣のよしみで、これからよろしくお願いいたします。」


と伝えた。


「システム会社の部長さんですか。すごいですね。」と彼女も言ってきた。まぁ、お世辞にしても、悪くは無い。


俺は苦笑しながら答えた。「いえいえ、御社のような大企業ではありませんから。」と答えた。


俺はそこでふと思い出した。

「すみません、少しお待ちください。」


そう言って部屋に戻り、小さな箱を取ってrきた。


「お返しといってはなんですが、こちらは有名なショコラティエのアソートだそうです。私は甘いものはそれほど得意ではないので、よろしければどうぞ。到来もので恐縮ですが。」

そう言って、昨日白平から受け取ったチョコの箱を渡す。


まあ俺も甘いものが嫌いなわけではないが、価値をわかる人が消費するほうがいいだろう。


彼女はそれを見て、眼を見張った。

「え、あそこのアソートですか! これ、なかなか手に入らないんですよ。よろしいんですか?」


「ええ、いただきものですが、それでよければ。私には価値がわからないので、わかっている人が食べるほうが作った人も嬉しいと思います。」


俺はそう言って、彼女にチョコを渡した。

半分押し付けたともいうが。


「ありがとうございました。いずれにしましても、これからよろしくお願いいたします。」

彼女はそう言って、自分の部屋に入っていった。

片付けはどうなったのかな、と俺はぼんやり考える。


なお、包みを開けてみたら、クレージュのスポーツタオルだった。。

どうせタオルは使うものだし、高級すぎず、かといって安物ではない。


なかなかのセンスだな、と俺は思った。



彼女のことはとりあえず忘れ、夕食にした。


夕食といっても、昨日買ってきたタイのポワレが残っているので、それとパンとビールを並べるだけだ。デザートにモンブランもあるが。


温めなおしたタイは、意外にうまかった。

四十になると、肉より魚がよくなってくるのかな…などとぼんやり考える。



俺はそのあと動画配信で、結構前の映画を選んだ。


「スライディング・ドア」という映画だ。

地下鉄のドアが閉まる直前に走って行って、乗れたか乗れなかったか。


その一瞬の違いだけで、人生が全然変わっていく話だ。舞台はロンドンだ。

二つの生きざまが並べて描かれるので、見ているほうはとても面白い。



ああ、ほんの少しの選択の違いや不可抗力で、違った人生になるんだなあ。

俺は思った。


もしかして俺も女性を…とちょっとだけ考えたが、そんな無意味なことを考えてもしかたない、と無理やりに頭から追い出しそうとた。


俺だって単なる非モテの独身大魔法使いというわけではない。

ブサイクではないと思うし、それなりに女性とお話ししたことはある。

(あまりに空しい負け惜しみだが。)


女性がいる飲み屋では、女性たちが寄ってくる。


ただ、親密になるのが怖かってだけだ。


というか、その前に、自分から好きな相手に迫って断られたら、もうその関係は続かない。


-それくらいなら適度な距離感で付き合っておけば、それが続くし、自分が傷つくこともない。


…そう思っていた。


そうしたら、突然、ある程度仲が良かった学生時代からの友人の女性が「私、結婚するの。」と言ってきた。


当時の俺は衝撃を受けた。俺も彼女を好きだったからだ。


「もしかしたら田中君が運命の人かな、って思ったこともあったけど、田中君は、私には女性としての興味なかったみたいだしね。 私、自分を愛してくれる人と結婚することにしたの。」


俺はショックで何も言えなかった。



「女は愛されてこそそよ。田中君、いままでありがとう。」



彼女はそう一気に言って、俺の前から去った。俺ば呆然と立ち尽くした。それが27歳の時の出来事だ


友人や同僚が結婚し始めるころだ。 俺は大学院の修士で学問を諦め、就職した。そして数年が経ち、仕事に熱中していたころだった。勉強会に行ったりして新しい技術を得ようとしていた。


意識高い系とも言えるが、女性との遊び方、付き合い方などを知らないただのヘタレ童貞男だったとも言える。



あの日、彼女の後ろ姿をこっそり眺めながらこんなことを思った・


「おい和香、どうせ結婚するならその前に一回やらせてくれよ!」


それは童貞の俺の魂の叫びの本音だったのだが、口には出せなかった。


だが、こうも思った。


「やらせてくれると言われても、ベッドで何とかしようとして失敗して馬鹿にされたらどうしよう…。。相手は百戦錬磨、こっちはチェリーボーイ。駄目ね、と鼻で笑われて終わりかもしれない…」


そう言って自分を正当化したものだ。


だが、それから俺は女性に期待しなくなった。

下手に期待すると、あとで裏切られる。そう思ってしまったのだ。


学生時代の友人の和香が、「裏切った」のかどうかは本当はわからない。俺は彼女に思いを伝えなかったし、彼女から必要以上に近づいてくることもなかったのだから。



性欲がなくなったわけではないので、AVは見るが風俗にはいかない。

なんとなくの童貞継続だ。


それに、三十を超えると欲求も弱くなってきた。


まあ、まさか三十過ぎて夢精するとは思わなかったが…。





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