第3話. ドリームトレーディング


翌朝は、すっきりと目覚めた。二日酔いもない、さわやかな朝だ。


別に何の夢も見ていない。ただぐっすり眠ったのだ。


シャワーを浴び、トーストとハムエッグの簡単な朝食を準備する。


ただコーヒーはネルドリップで淹れる。本格的な淹れ方だ。最近ではサイフォンを使う店はほとんどないしな。


今日は時間があるので、豆も自分で焙煎する。この香りもたまらない。


ささやかな男のこだわりと言えるだろう。

ちなみに、豆を挽くミルも手動だ。手でゴリゴリと豆を挽くだけで、なんとなくいい気分になるのだ。


朝食をとりながらコーヒーの味と香りをブラックで楽しんだ後、白平の名刺をもう一度見る。


住所は、それなりに大きなビルになっている。


こんなところに、株式会社童貞が本当にあるのだろうか?まぁ行けばわかることだろう。


そんなことを思いながら俺はひげを剃り、髪型を整える。


ポロシャツとチノパン、スニーカーで、ジャケットを羽織って部屋を出た。


ちょうど、隣の部屋に引っ越し屋が出入りしているところだった。土曜日の朝から引っ越してくるのか。まぁ週末に引っ越しを終わらせようとするならば、朝からやるのは正解だろうな。


お隣さんは、2ヶ月ぐらい空室になっていたが、新しい人が入るんだな。


それほど近所付き合いがあるわけでもないが、同じフロアのよしみで、顔を見れば、挨拶をする位の間柄ではある。その辺がちょうどいい距離感だ。


マンションの横に、引っ越しトラックが停まっている。俺も昔、学生時代には引っ越しのバイトをしたなあ。作業員の皆さんご苦労様、などと内心考えつつ、駅へ向かう。


ビルの場所は、携帯で確認してある。途中で電車を乗り換えて、目的地のビルにたどり着く。


時間的には11時ちょっと前だ。ほぼ時間通りと言えるだろう。


ビルのテナントリストを見てみる。当然だろうが、株式会社童貞と言うのはない。どうなっているのだろうか?


俺は、昨日言われた通り、白平の携帯に電話をかけた。


白平はすぐに電話に出た。

「田中さん、今どちらにいらっしゃいますか?」



「ビルの1階です。」俺は答える。

「では、5階に上がってきてください。」


それらしい会社はなかったが、とりあえず俺は言われた通り、5階へ上がってみる。エレベーターを出ると、白平が迎えに出ていた。


170センチはない、比較的小柄な白平は、今日は俺と同じように、ポロシャツの上にジャケットを羽織っていた。


「田中さん、おはようございます。ようこそいらっしゃいました。」


「「おはようございます。ここがオフィスなんですか?」


俺がいぶかって聞いてみると、白平は答える。


「はい、こちらへどうぞ。」と言って、俺を案内する。


セキュリティーのドアを開けた。そこには、株式会社ドリームトレーディング通用口と書いてある。


白平は言う。「当社は、対外的には株式会社ドリームトレーディングと言うシステム会社です。株式会社童貞、というのは童貞にしか伝えません。」」


ドリームトレーディングと言う会社名は聞いたことがある。確か、費用は高いがクオリティーが高いシステム会社だったと思う。


「ではこちらへどうぞ。」白平の案内で、俺はオフィスの中に入った。


「当社は、このビルのツーフロアを使っています。正確に言えば、当社と、いくつかの関連会社が入っています。」


「関連会社もあるんですね?」俺が言うと、白平ははうなずく。

「はい、その辺も順次お話ししていきます。


ただ、今日は、まずは入社したら、田中さんに管掌していただくことになる、株式会社ドリームトレーディングの、システム部門のことをお話ししようと思います。」



まあ、俺が入ることになるかもしれない部署の業務が最初の説明になるのは当然か。


広く開いているフロアには、パーティションで仕切られた、いわゆるキュービクルがたくさん並んでいる。たぶん三十では聞かないくらいある。


「当社の社員は、それぞれ、ある程度のプライバシーが守られた中で、プログラミングコーディングを行っていきます。必要に応じて耳栓やヘッドフォンの利用が認められています。」


なるほど。自分の世界に入っていいわけだ。コーディングで集中しているときにはありがたい配慮だな。なお、緊急の用件があればチャットで連絡するそうだ。


「各人、大型ディスプレイが2つ、それから旧式のPCもあります。後は携帯電話もいくつか置いています。」


白平が説明する。


俺は疑問について尋ねてみた。

「旧式の機械は何に使うんですか?」


「これは、本番環境のテスト用です。メンバーたちには、最新のGPUやCPU、グラボなどを積んだ機器を提供していますが、顧客の本番環境は、結構シャビィなことも多いので、それ用の機械を置いています。」


なるほど。残念ながらそれがリアリティだな。


「この世の中、たとえ大企業であっても、信じられないほど、低いスペックのコンピューターを使っているところもそれなりに多いのです。」



「今日は、5人ぐらい出社しているようですね。」

白平は言う。


「もちろん事情のある休日出勤です。

皆さんに代休をしっかり取らせるのも管理職の仕事ですね。」


「システム会社の風物詩とも言われる連日の徹夜、いわゆるデスマーチは、当社にありません。それぞれのプログラマーに、業務量として適切なものしか配分していませんので、過重の負荷はかけません。」


「徹底しているんですね。」俺は感心する。


「私たちは、最新技術をいつも取り入れていますし、プログラマーたちのスペックも高い。無能な連中が馬鹿なプログラムを非効率に書けば書くだけ人工(にんく)が増えて、売り上げが上がると言ったような無駄は当社にはありません。」


「本当に、プログラマーにとって理想の環境ですね。」俺は感嘆していう。


「ええ、それが、創業者である真童貞男の信念ですからね。」

白平はきっぱりと言った・


「どんな業務をしているのか、あの人たちに話を聞いたり、コードを見てもいいですか?」



俺は、彼らの仕事のクオリティーを確認したかったので、そう聞いてみた。


「本来はこれはNDA(秘密保持契約)ベースの話です。その点だけは守っていただければ結構ですよ」


白平は、1人のプログラマーに声をかけた。



「鹿谷くんちょっといいかな。」


白平は彼に話かける。、

むつ市も

「鹿谷くん、こちらは田中さん。業務管理システムの『さわやか業務』の開発者だよ。」


白平はそう言って俺のことを紹介した。なるほど、俺のこともよく調べてあるな。


「えー、そうなんですか、素晴らしいですね。あのソフト、低スペックの機械でもちゃんと動いて、それなりにメニューも揃っている、中小企業にはぴったりのシステムだと思います。」


俺は、そう褒められてちょっとムズがゆかった。


「ありがとうございます。田中一郎です。今日は、会社の見学に来ました。よろしければ、鹿谷さんがどんなことをやられているか、教えていただけますか。」 


白平がうなずく。


鹿谷と言う男はそれを確認してから話し始めた。


「僕は、鹿谷隆史といいます。以前は、商社系のシステム会社の子会社でSE

をやっていました。ただ、関係者がみんな能力に欠けるところがあって、そのしわ寄せが全部僕に振られてきてしまったんです。



怒りとストレスで潰れそうになっていたところに、この会社から声がかかりました。


あのまま行ってたら、僕は多分メンタルをやられていたと思います。


こちらにはリソースも豊富にあるし、意欲があればいろんなことができます。なので毎日楽しくしかも前向きに仕事をしています。


今は当社で請け負った、クラウドにつなげるクライアントサイドのミドルウェアとそれからロードバランサーの調整のプログラムを書いています。」


俺は声をあげた。

「ほう。それは興味深いですね。ミドルウェアからそのままロードバランサーにつなげるんですか?」


「はい。サーバーサイドでなく、ミドルウェアから直にロードバランサーを制御するんです。」


なかなか高度な技術だ。俺は感心した。



「よかったらちょっとコードを見せていただけませんか?」


白平がうなずくのを見て、鹿谷は俺をキュービクルに招いた


じゃあこちらにコードを出します。コメントもしっかりつけてあるので、読みやすいと思いますがどうでしょうか。」


俺は彼のプログラムしたコードを眺めた。


びっくりするほど読みやすい。そして、効率的だ。


ミドルウェアからロードバランサーにつなげるところの関数は俺も見たことがない。


「この関数は?」

俺が聞いてみると、彼は嬉しそうに答えた。


「さすがですね。これは最新バージョンでリリースされたばかりの新しい機能です。多分、日本で実装するのは初めてだと思いますよ。」


「これはコードレビューは済んでいるんですか?」俺が聞くと


「ええ、まだです。コードレビューは、4人でおこないます。他の3人からボコボコにされますけど、それはそれで楽しいですよ。」


俺は驚いた。ここまでのクオリティーがあるのに、まだコートレビュー前なのか。とてもクオリティーが高い。


コードレビューと言うのは、プログラマーが書いたコードを他の人間、通常は上司が見た上で、コメントをつけたりするものだ。


無能な上役だと、見当はずれなコメントをつけたり、無駄な関数を使って作り直せと命じたり、大変なことになる。その一方、超有能な人間にレビューさせると、ゼロから作り直したほうがマシのようになり、プログラマーは涙目になる。


この会社のコードレビューは、健全に向上心のある人たちで構成されているようだ。こんなところで若いうちからプログラミングしたかったなぁ。俺はつくづく思った。



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