煙の輪郭線
空野ゆり
本文
まただ。
――ボーン、ボーン……
下校時刻を知らせる鐘の音が少年のすきっ腹を揺する。余韻がぐるぐると空っぽの胃の中を旋回する。あぁ、腹が鳴く、と少年はぼんやりとした頭のどこかで呟くように思った。
――ぐぅ。
抵抗するように低く唸ったその鳴き声は、いつまでも地鳴りのように響き続ける鐘の音の中に紛れた。
昨日もそうだったし、一昨日だってそうだった。もしかしたらもっと前からなのかもしれない。下校の鐘は少年の空腹を告げるかのように学舎に鳴り渡る。いや、逆に少年の腹の方が鐘の音に共鳴しているのだろうか。
ともかく、これで今日の授業は終わりだ。少年はそそくさと帰り支度をして真っ先に学舎を飛び出す。
木造の小さな学舎はいつ倒れてもおかしくない気がするくらいにくたびれているのだが、もう何十年も澄ました顔で町の片隅に立ち続けている。母もその母もそのまた母もこの学舎に通っていたというが、少年にとってはなんの関心も感慨も湧かない。一学年に三十人ちょっとの生徒しかいない、机と壁との間に微妙な空間が持て余された教室であっても、少年には肩身の狭い場所であることに変わりはなかった。
(――あにさん)
学舎を出たところを追い掛けるように、空から声が降ってきた。
「やあ赤。今日は随分早いね」
少年の数歩先に一羽の若いカラスが舞い降りる。左足には赤い布切れが絡まったようにくくり付けられている。赤と呼ばれたそのカラスは、首を傾げて少年を見た。黒い真珠に似た小さな瞳が夕日を受けて濡れたように光っていた。
(腹が減っては)
「なんだい、またあのデカブツに喧嘩を売りに行くの?」
まるで顔写真でも貼り付けられているかのように表情の乏しかった少年の頬が心なしか緩んだ。その変化を確認するように、カラスは先程とは反対向きに首を傾げて応えた。
(あにさんこそ)
すると今度は少年が少し眉間にしわを寄せたので、ちょっとカラスを睨む格好になった。カラスはピクリとも動かずにそんな少年を見返す。相変わらず小さな瞳が光っている。少年は薄汚れた上着の裾で脇腹を拭くようにさすりながら、
「まあいいさ。僕もちょうど、腹が空いたところだ」
と言うと、水が引くように眉間のしわも消えていった。
「あ、けむの子だ!」
甲高い声が、後頭部に突き刺さらんばかりの勢いで投げ付けられた。振り返って見ると、鮮やかな赤いセーターだのアイロンのかかった真っ白いシャツだのを着た同級生の一団がこちらへ歩いて来る。少々油を売り過ぎたか。少年は何も見なかったことにして再び前を向いて歩き始める。
「けむの子、またカラスなんかと、話をしているよ。猫や犬と話した方がよっぽど楽しいのに」
優に一軒分は先を歩く少年のところまで届く大声で言葉が飛ぶ。店仕舞いを始めた通りの騒がしさと相まって、空気を引っ掻き回すようにして音が暴れ出す。
「この間お父さんが言っていたよ、カラスなんかと話をする奴は根性がひねくれているんだって」
「きっと、けむの子だから変なんだよ」
「そうだよ、煙になれるなんて普通じゃないもん」
「わかった、じゃあけむの子は煙とカラスの子供なんだ!」
「そうだ、きっとそうだ!」
わっと子供たちの笑い声が湧き起こると、そのまま大波になって押し寄せてきた。少年の隣を歩いていたカラスがバサバサと羽音も激しく空へ駆け上がる。その後を追って赤い布が巻き上げられる。「煙の子!」「カラスの子!」というような奇声の波は通りを走り抜けて団地のある丘の方へと遠ざかって行った。荒波に揉まれた少年の耳には、大きな籠を店内に引き摺り入れる時の砂が擦れる音や金物同士がぶつかり合う金属質な音、そしてシャッターを閉める雷にも似た音などで溢れ返っている通りの喧騒も、木の葉のざわめきと同じくらいに静かな物音として感じられた。
(いい加減腹が減ったな)
どこへ行っていたのか、そんな間の抜けたことを言いながらカラスが舞い戻ってきた。しかし降りては来ないで、頭上をゆっくりと旋回している。
「そうだ、まんじゅうを貰いに行こう」
独り言にしてもか細い声でぽつりと、唇を僅かに動かすようにして呟いた。カラスの羽の音が大きくなる。
(それはいい)
一人と一羽は少し足を速めて、子供達が吸い込まれていった丘へ続く道とは反対の、海沿いへと続く坂道を降りて行く。砂利などが混じったでこぼこ道は、時折白や焦げ茶の石などもごろごろしていて足場が悪い上、坂の角度もそれなりにあるのだが、少年の足運びは確かなものだ。カラスは時々道端の電柱やら植木やらに留まっては飛び留まっては飛びを繰り返して、歩みを揃えつつ進む。
暫く行くと、甘ったるく鼻にまとわりつくような刺激臭が風に運ばれて来た。学舎の先生は腐った卵のような臭いだと説明していたが、少年は汗にバターを溶かしたものをうんと煮詰めて発酵させたような臭いだと思っていた。腐った卵など嗅いだこともないばかりか見たこともない。もちろん、汗とバターを煮詰めたものだなんて、もっとお目にかかるはずのないものではあったが。潮風と混じり合っているためなのか、鼻を刺すようなしょっぱさの中に言い知れない甘さと、発酵したものに似た酸っぱいようなえぐいような、そんな刺激的な諸々が複雑に入り混じった臭いだ、と思う。
やがて所々から雲のように立ち上る湯煙が現れた。排水溝には白や黄色の結晶がこびり付いている所も見て取れる。ほんのりと湯気を立てて流れるのは薄く緑がかった白濁色のお湯。どこからかサーサーと雨が流れ落ちる時の音に似た、水の流れる音が反響してきていた。
最初は鼻に付いていた臭いも、いつのまにか気にならなくなっている。むしろどことなく心をほぐしてくれているような、そんな親しみさえ感じ始めているくらいだ。カラスは湯煙の柱の間を縫うように飛び回っている。白い湯気を黒い翼で掻きわけるように切って舞う様子はいかにも楽しげである。ひらひらと棚引く赤い布もいつもより鮮やかに目に映った。少年の和らいだ心にふつふつと一つの衝動が湧きあがる。自分も、飛びたい。
ぼんっと小気味の良い音が鳴りそうな調子で、少年の姿は一瞬にして綿雲のかけらのような薄灰色の煙一塊に変わっていた。カラスが一際大きな鳴き声をあげ、それが建物の間を渡り歩くように反響していく。その音に誘われるようにして煙はくるくると巻き上がり、カラスに続いて滑空する。最初に現れた湯煙を右へ、次の建物は左へ。カラスと煙とはまるで戯れ合うかのごとく近づいたり遠ざかったりしながら、ジグザグと縫うように温泉街を一周していった。
やがて一番大きな煙突のある銭湯まで流れ着くと、煙はゆるゆると地上に降りて来て再び元の少年の姿をとった。カラスの濡れ羽色をした心持長い前髪を払ってほんのりと汗に湿った額を拭う少年の顔は、遊び疲れた子供にふさわしい満足げな微笑みが広がっていた。
「こんにちは」
銭湯の向かいにある小さな出店に歩み寄りながら、少年は忙しげにせいろを運んでいるふくよかな女性に声をかけた。出店には煤けた赤いのれんが掛けられており、「肉まんじゅう」の文字が太く丸っこい文字で掲げられている。のれんのあちこちからは糸がほどけたり布が千切れかかったりしていてかなりの年季が入っている。
「ああ、こんにちは」
目尻に寄った笑いじわが目立つその女性は、くしゃっと顔中のしわを寄せて笑顔を浮かべた。その奥では女性の夫であるゴマ塩のような刈上げの男性が、無言でせっせと餡を練り続けている。そのたくましい二本の腕はうっすらと汗に覆われ、てらてらと光沢をもって夕日を映していた。
「おばちゃん、おまんじゅうくださいな」
「はいよ、まいどあり。今日は小さなお友達も一緒かね?」
「……はい」
少年は上着のポケットから黒ずんだ小さな貨幣を五枚取り出してそっとカウンターに置いた。レジ横に黄ばんだセロテープで張り付けられた「肉まんじゅう一つ銅三十」の文字が目に入らないように、じっと顔を俯けている。
「じゃあ、これはサービスね」
そう言って女性は先程よりもいっそうしわをくしゃくしゃに寄せて笑顔を作ると、ひしゃげたようなぶかっこうなまんじゅうの隣に、割れて餡が覗いたまんじゅうを置いて紙包みにくるんだ。
「いつもこんなのばっかりだけど、堪忍してね」
「ううん、ありがとうおばちゃん!」
紙包みを受け取って両手にじんわりと温もりが広がるのを感じると、少年は頬を上気させて目を線になるほど細めて笑った。その小さな頬には指でつつかれたようにぺこりと、愛嬌のある片えくぼが現われていた。
(あにさん、早く!)
待ちくたびれたのか、少年を呼ぶように鳴き始めたカラスの声に急かされて、小走りで銭湯の入り口の石塀まで取って返す。紙包みを慎重に開くと、豚の脂の甘い香りが鼻をくすぐった。生唾を飲み込んで、まず割れたまんじゅうを手に取ると皮を手早くざっくりと千切りとり、残った餡とみかんの薄皮のように張り付いた皮の部分を石塀の上に置いてやる。すると、待ち構えていたようにカラスが肉汁を飛ばす勢いでついばみ始めた。少年ははぎ取った皮を口に入れ、小麦粉の甘みともっちりした食感を楽しみながら噛み締める。続いてもう一つのまんじゅうを手に取り、がぶりと一思いにかぶりついた。瞬間、ふわっと口中に豚と玉ねぎの甘みが広がり、生温かい肉汁が喉を滑り落ちていった。
大事に食べていた肉まんじゅうもあっという間に胃の中へ納まり、名残惜しさに指を舐め舐め余韻に浸っていると、ふいに石塀の内からついと小さな影が現れ出た。
「あら」
「あ」
少年の間の抜けた声にかぶさって、カラスの喜ばしげなカァという声が続いた。
「こんにちは。赤も一緒ね」
影の主が石塀に沿って近付き、塀の影まで入ってくると、少年から逆光になっていた少女の姿がいくらかよく見えるようになった。あかぎれの目立つ細く小さな両手には塵取りと竹箒がそれぞれ握られており、色褪せた水色の着物の裾を黄ばんだ白い襷でたくし上げている。高く一つに結った麦色の髪の先が肩の下で軽やかに揺れていた。
「ごめん、さっきあの、食べ終わっちゃって……」
「え? ああ、いいんです。というかあたし、お仕事中なので!」
挨拶を返すこともそこそこに、申し訳なさげに小さな声で謝った少年に対し、少女は屈託のない笑顔でそう答えると、慣れた手つきで銭湯の入り口周辺を掃き始めた。またも少年は聞き取れるかどうかの溜息のような「そう……」を零すと、黙って少女の箒捌きを見つめる。
「今日もせいが出るねえ!」
向かいのまんじゅう屋のおばちゃんが朗らかに声をかけると、少女は柔らかく微笑んで会釈を返した。
銭湯の白い壁は夕暮れの日差しによって鮮やかなオレンジ色に染め上げられ、等間隔に並んだ窓には薄紫色のヒツジ雲が浮かぶ夕焼け空がいくつも写っていた。ヒツジ雲の群れがゆっくりと空を横切っていく様子は、どこか放牧された羊たちが小屋へと帰っていくところにも見える。日が落ちる前に帰らなくては、と少年はもう一度指先を舐めながら現実に返る思いで考えた。
「またあんたっていう子は!」
玄関のドアの音を聞きつけたのか、家に入るなり母親の声がぴしゃりと振り下ろされた。ただいま、と言いかけた口は中途半端に開いたところで固まり、すぐにぎゅっと唇を噛んで真一文字に結ばれた。洗濯物を取り込んでいる最中なのか、ドタバタという母親の足音とバサバサという布が擦れ合う音が聞こえている。鎧のように厚い皮で覆われた母の裸足が畳を踏む重低音は、軍隊の行進さながらの威圧感を持って少年の耳に届いた。
「もうあんな薄汚れたカラスなんかとは口をきくなってあれほど言っておいたのに、あんたまだ懲りずに今日も帰りに話し込んでいたのかい? 通りで子供が騒いでいたって、わたしがそれを聞いた時にどれだけ恥ずかしい思いをしたことか、あんたわかっているんだろうね?」
まくしたてる声の方へ少年が恐る恐る近付いて行くと、居間で取り込んだ洗濯物を畳んでいた母は気配に気付いてキッと少年を睨み付けた。
「ごめんなさい……」
「謝ったってやめないことには話にならないよ。そりゃ子供の頃は誰だって動物と話ができるんだからそのことを責めるつもりはないけどね。いったいなんだってよりによってカラスなんかと! ああいうゴミを漁って生きているような汚らしい生き物なんて、関わり合いになるもんじゃない。まったくもう……それもこれも、あんたがけむの子だからいけないんだか……」
そこまで言うと、母親は手を止めて一つ深々と溜息をついた。まるで世間の不幸をみんな一人で抱え込まされているとでも言いたげな溜息だ。少年はただ立ち尽くしたきりで、唇が白くなるほどに固く引き結んだまま、じっと耐えるように祈るように動かずにいた。
「あんたまさか、外でぼんぼん煙になったりしていないだろうね?」
急に声の調子を静かにして、母親は再び射るような目を少年の顔に向けた。射すくめられた少年は首だけ震えるように、小さく横に振って見せた。
「いいかい、外で煙になったとわかったら、その時は容赦しないよ。……あんたのひいじいさんもけむの子だったっていうけど、ばれないようにばれないようにと、外では煙になったりしなかったんだ。まあでも、そのじいさんも最後は頭がおかしくなっちまったって話だからねぇ……」
気が済んだのか、母親はそう言い残して、畳んだ洗濯物を抱えて少年のことは目もくれずに寝室の方へと歩み去った。一人残された少年は結んでいた口を解いてふぅと一つ息を吐き出すと、そそくさと洗面所に向かった。
細かい傷が無数についてくすんだ鏡の前に立つと、目の前の自分の頬にいつのまにか煤がついているのが目に入った。手を洗ったついでに顔までばしゃばしゃと漱ぐ。勢いよく漱いだためが、はね散らかった水が着ていたTシャツのお腹周りまで濡らしてしまった。使い古して糸が強張り、こするのが痛いほどにごわごわしたタオルを手に取って水気を取っていると、脇腹の赤黒い痣がちらりと覗いた。
パッと、頭の奥で電灯のそれに似た白い光が閃く感覚。――母親の怒声。ガラスのコップが砕ける音。恐怖。縁の欠けた皿が飛んでくる。突き飛ばされるほどの衝撃と、脇腹の激痛。母の太い腕。再び振り下ろされる皿。萎縮する全身。痛みを感じる度に、脳の奥で何かが光る。痛い。でも、それ以上に、恐い。誰か。なんで。なんで自分は――。
はっと気が付くと、鏡の奥の自分と目が合った。先程までの恐怖に瞳が揺れている。悪夢から覚めたばかりのように、体中には凍りそうなほど冷たい汗をかいていた。脇腹がまだじんじんと熱く疼いているような気がする。
少年は顔を歪め、音もなく一塊の煙となった。
(あにさんはいったいどこへ行ったろう)
風切羽を動かすのがいつもよりほんの少し重たい。今日の空気は湿気ていて翼にまとわりつくようだ。そのうちきっと、雨が降る。その前になんとか見つけたいものだ、とカラスは少年の家に向かって飛びながら考えていた。
(せっかくいい拾い物をしたというのに、こうもなかなか見つけられないとはどうしたことか)
ここ数日、カラスは少年の姿を見ていない。毎日会っている訳ではないので、このような時がない訳ではないが、会いに行こうと空から探せば大抵は簡単に見つけ出すことができるものだ。まだ昼の鐘が鳴るよりも少々早いので、学舎の周りでもうろついて待とうかという考えでカラスが向かってみると、窓越しに見たところいつもの教室には姿がない。ならば他の教室はどうかとぐるりと回って見たのだが、いっこうにいる様子がない。それではもしや体調でも崩して家に籠っているのでは、と丘の団地の方へと嘴の向きを切り替えたところである。
(この間はついにあのデカブツにも勝ったことだし、一つ報告を入れたいところなのだが)
団地の北の端になんとなく申し訳なさそうにひっそりと佇んでいるのが、少年が母親と二人で暮らしている小さな住まいである。一階建ての建物は最低限必要な部屋の中に最低限必要なだけの家具が置かれた、実に質素な造り。元は白かったであろう壁は薄汚れた野良猫のような灰色で、蔦の絡まっている所もある。南側の屋根瓦には少し枯れ始めて茶色がかった深緑色の苔が覆い被さっていた。
心持ち遠目から様子を伺ってみると、母親は居間ではたきを掛けているところだ。カラスが訪ねて来たと知れたら少年の身に何が起きるか想像もしたくないところであるが、掃除中であるならば好都合だと、カラスは乾いたはたきの音に羽音を紛らわせて窓辺へと近付く。まず寝室から覗き見てみるが、人気はない。台所や洗面所など、一通り回って見たもののこちらにもいないようである。
(となると、あとは温泉街くらいか……)
空には黒い雲が増えてきている。土の匂いも強くなり、田畑では虫たちが活発に動き始めた。もう後は時間の問題だ。カラスは尾を引く赤い布を翻すようにして方向転換し、海の方へと翼を打った。
(本当にどこへ行ってしまったのだろう)
こちらでもぐるりと飛び回って見たのだが、遂に少年の姿は見出せなかった。いい加減に飛び疲れたカラスは、例の銭湯の石垣に留まって一休みする。カラスには他に少年が行きそうな場所がこれといって思い当たらない。
「あら、赤? お前だけ?」
諦めと心配とがない交ぜになって悶々とし出したところへ、ひょっこりと少女が顔を出した。
(あねさん! いいところに)
カラスがバサバサと羽音もうるさく少年の姿が見当たらないことを伝えると、少女もいつになく険しい顔つきになる。
「何かいつも以上にひどいこと、されたのかしら? あたしは相変わらずの働き通しで暫く見かけてないわ……」
ふと少女の脳裏には、初めて少年と会った時のことが思い浮かんできた。
それはおよそ半年前、叩きつけるような大粒の雨の日だった。台風が迫っているという噂が出て、銭湯の入り口に面した雨戸を閉めて来るように言われて出てみると、石塀の終わりで屈み込んでいる少年の背中を見つけた。今にも雨に叩き折られてしまいそうな、弱弱しく痩せた背中だった。慌てて駆け寄ってみると、濡れて透けたシャツの下に無数の赤や青の痣が見て取れ、脇腹にはうっすらと血が滲んでいた。
「だ、大丈夫ですか?」
(大丈夫なわけない! あにさん、ひとまず雨宿り!)
おっかなびっくり声をかけた少女に答えたのは、苦しそうに肩で息をしている少年ではなく、その傍らでうろうろと戸惑っているカラスの方だった。
「ともかく、手当てしないと――」
それから少女はすぐに少年を銭湯の玄関先まで肩を貸して連れてくると、従業員寮にある自分の部屋から気休め程度の医療品が入った救急箱とタオルを持ってきて簡単な手当てを施した。少年の体はほのかに熱を持っているようにも感じたが、少し体調が落ち着いて雨脚が引いてくると、「帰らないと……」とぼそりと呟いて華奢な体を引きずるようにその日は帰って行った。
その後、銭湯の入り口の石塀で会う度に言葉を交わすようになり、何度か「お礼に」と肉まんじゅうを分けてくれたりもした。そうやって細々と、ゆっくりと仲を深めることになった二人にとって、お互いがお互いの唯一の人間の友人、という関係にもなっていった。
少女の両親はひどく貧しく、物心ついて働けると判断されるとすぐに、学校へもろくにやらずにこの銭湯へと奉公に出させた。そのくせいつも飲みに出かけてばかりいた父親の顔は、今はもううろ覚えのありさまだ。仕事場では少女と同年代の者など一人もおらず、それどころか動物と会話のできるほど幼い者も他にいなかった。一日働いては寮で寝るような生活で、せいぜい銭湯に棲みつくネズミやコウモリほどしか話し相手もいなかった少女にとって、同世代で他愛のない会話ができる少年の存在はありがたいものとなった。その一方で、自分よりも恵まれた家庭に生まれたはずでも、自分とは異なる痛みや孤独を抱える少年を案ずる心を、出会った時から抱き続けてもいるのだった。
「それこそ湯煙みたいにどこかへ消えてしまってなければいいけど……」
と少女は考えを口にしたところで、
「――あ」
(そうだ、煙!)
思い付いて見上げてみれば、銭湯から空に向かって悠々と伸びている煙突の先端。白い湯煙が立ち上っていく根元に、引っ掛かるようにして漂っているのは。
(――あにさん、随分探した。いったいなんだってこんなところに?)
頼りなく浮かんでいる煙はふるふると揺れては渦巻いて、今にも雨を落とすのではないかという暗雲の子供にも見えた。
「……ねえ赤、僕はもう、輪郭なんて持ちたくない。痛いだけだ」
風鳴りと聞き違えそうにかすかな声がそう訴えた。
カラスが見下ろす先には、天窓から這い出て煙突の点検や清掃に使う細い足場を伝ってくる少女の姿も見えた。
(その様子じゃ、あのおっかない人にひどい負け方をしたんだな)
「赤とは違ってこれは勝ち負けじゃないんだけど……でも、確かにひどい。もう、これ以上痛いことには耐えられないよ」
煙の発する声は段々と確かなものになってきた。普段の少年の表情の乏しい様子からは想像できないほど、言葉を連ねる毎にその語気は感情が籠って激しくなっていく。それはまるで、それまで狭い入れ物に閉じ込められ続けていた煙が、あるきっかけで小さな抜け穴を見つけ出し、そこから空へと一気に力強くうねり上がっていくようでもあった。
「輪郭があることはすごく不自由だよ。僕は小さくて力もないから抵抗できない。でも、こうして煙になってしまえば、殴られたって物を投げ付けられたって痛くはないもの。痛くなければ、こんなに恐くもないはずなんだ。もう、このまんまでずっと輪郭なんてないままでいたい。形に捕らわれないでふわふわしていた方がずっとずっと自由だよ。誰も認めてくれない。姿が変わることを認めてくれないんだったら、僕はもういっそ煙でいたいんだ。そうしたら、僕を責める人たちにとっては、僕はいなくなったみたいになれるじゃないか……」
(でもそれじゃあ、俺が困る)
じっと黙って聞いていたカラスが鋭く言葉を挟んだ。その瞳はどこまでも深く黒い光を宿していた。
「あたしも、困ります!」
少女はキッパリとそう叫ぶと、危なっかしげな横跳びで足場を渡り終え、言葉を続けた。
「あたしや赤は、アナタがそうなったら困ります。あたしたちはアナタがこうして煙になっていたって、ちゃんとアナタだってわかるけれど、煙に触れることはできません。触れることができなきゃ、たとえ何かしたくたって何もしてあげられないじゃないですか。それに、あの美味しいおまんじゅうだって食べられない。どんなに毎日が痛くても、ひもじくても、あれを一緒に食べる時くらい、少しは幸せだって思えませんか?」
少女の言葉を聞くと、煙は暫く黙って、何か考えている様子でゆるゆるとまた渦巻いていた。空は既に一面の厚い黒雲に覆い尽くされ、冷たく湿った風がさわさわと前触れのように吹いて来た。
(そうだあにさん、今日はいい拾い物をしたもんで、それを届けに来たんだった。一雨来る前に、そろそろ降りた方がいい)
カラスが嘴に咥えていた物を置いて見せると、それは鈍く銀色に光る硬貨だった。
(俺もあの時は痛かった。でも、あにさんが助けてくれた)
それはちょうど一年ほど前のこと。いつものように帰宅時間を遅らせるために温泉街の方から遠回りをして帰っていた少年は、この銭湯の前で倒れていたカラスを見付けたのだ。まだ幼かったカラスは巣から落ちたのか親に見捨てられたのか、腹を空かせて鳴いていた。それだけではなく、左足には怪我をしており、黒い羽根が赤く染まるのではないかと思うほど鮮やかな傷が覗いていた。
「かわいそうに。痛いか?」
(いたい……いや、はらがへった!)
その時たまたま小遣いを持ち合わせていた少年は、目の前にあった「肉まんじゅう」の文字を見つけ、急いでまんじゅう屋に駈け込んだのだった。
「うまいか?」
餡の部分だけをほじくり出して食べているカラスの様子に贅沢を感じながらも少年は聞いた。カラスが無我夢中で豚肉をつついているのを見て安心すると、まんじゅう屋で貰った布きれを傷口に当てがってやった。その後カラスは少年の世話のかいもあって見事に回復し、一人前の成鳥になったが、今でも少年に与えてもらったまんじゅうは大好物の一つであるようだ。
「……ありがとう。下へ降りよう」
銀貨はすぐ綺麗に形の整ったまんじゅうと、少しだけひしゃげたまんじゅうに姿を変えた。
「やっぱり、まだ痛い」
「あとでまた、手当てしますね」
(そのうち治るさ)
二人と一羽は同時にまんじゅうにかぶりつく。じわーっと、染み渡るように熱い肉汁が皮の中から湧き出した。
「やっぱり、美味しい」
そう言って微笑んだ少年の瞼の上に雨が降りて行った。
煙の輪郭線 空野ゆり @sshiou222
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