第4話   背負った十字架

※※※※※※




 七年前。

 いつもと変わらない、静かで平和な春の夜。


「逃げなさい! ヒガサ! アマト!」


 リビングから放たれた鬼気迫るその叫び声は、心地良い静寂を打ち破った。

 声を荒げた彼女の名は天若ハル、

 ヒガサの母親だ。


 リビングの隣に位置するキッチンの物陰に隠れる小さな影が二つ。


「兄ちゃん……」


「しっ。静かにしろアマト」


 小声で忠告したのはヒガサ。

 その隣で不安そうにしている少年の名は天若アマト

 ヒガサの弟である。

 アマトは普段から内気な性格で、兄に頼ってばかり。

 しかしそれが逆に、ヒガサの責任感を刺激してきた。

 そして、弟を守るというヒガサの正義感は次第に幅を広げ、人を守るという意志に変わっていった。


「お~い坊やたち~。怖がらないで出ておいで~」


「ほ~らお菓子いっぱいあるよ~」


 銃を持った男が複数人。

 くだらないエサでヒガサらを釣ろうとしている。

 無論、二人はそんな安いエサに食いつくほど馬鹿な魚ではない。


 一階はもちろん、二階からも足音が響いている。

 土足で上がっているせいか、その靴音は執拗に少年たちの鼓膜を揺らし、恐怖心を煽る。


 ヒガサは長男。

 彼が生まれる前に、父親はハルの元から身を晦ませた。

 それならこの家の柱足り得るのは、長男であるヒガサ。

 できることなら、母親を助けたい。

 それが叶わぬなら、少なくとも弟だけでも逃がしてやりたい。

 ヒガサはそんな重圧に押し潰されそうになっていた。

 それは今までもそうだったからだ。

 弟を、人を、守る。

 そうして正義を貫いてきた。

 それなのに、


(クソッ。どうして……)


 ヒガサには一歩が。


(動けよクソが!)


 僅かばかりの一歩が。


(どうして動かないんだよ!)


 勇気が出ない。

 隣で怯えるアマトに悟られないよう、震える足をつねっても、震える腕を力一杯握っても。

 何をしても、動かない。

 いや、動けない。

 まるで石化の呪いをかけられたように。


 本当の恐怖に直面した時、その人物の真価が問われるという。

 普段は自信に満ち溢れている人間でも、窮地に立つと怖気づいてしまったり。

 逆に、内気な性格の臆病者が、ここぞという時に立ち上がれることだってある。

 兄は前者で、弟は後者であった。


「兄ちゃん。僕の分まで生きて!」


「は?」


 長男が踏み出せなかった一歩を、次男が踏み出す。


「アマト! 待て!」


 男らがいるリビングの方へ、アマトは走り出したのだ。

 小さな戦士は、器用に男らの隙間を縫ってリビングを通り過ぎ、玄関の方へ駆け抜ける。

 まだ体が小さいことが功を奏した。


「待てこらクソガキ!」


「おい! そっち行ったぞ! 捕まえろ!」


 男らは必死に追いかける。

 まるで室内を駆け回る犬に翻弄される飼い主のように。

 とはいえ、捕まるのも時間の問題。

 そしていつしか、アマトの勇気はヒガサにかかった石化の呪いを解いていた。


「兄ちゃん! 秘密基地!」


 縦横無尽に駆け回るアマトが叫んだ言葉の意図を、男らは理解できない。

 だが、ヒガサには分かる。

 アマトの言う秘密基地とは、玄関から離れた場所にあるウォークインクローゼットのこと。

 たくさんの洋服がかけられており、かくれんぼするには持ってこいの場所だった。

 なぜアマトがその秘密基地を叫んだのか。

 それは、外へと続く抜け穴があるからだ。

 抜け穴と言っても、建設時に造られたものではなく、ヒガサとアマトによって開けられた、穴。

 きっかけはヒガサがクローゼットの奥、壁の一部を破損したことから始まり、今となっては子供一人くらいなら通れるほどの大きさに広がっている。

 ちなみに普段は元々置いてあったチェストをかぶせて隠していたため、母親には気づかれていない。

 正面玄関や裏口には見張りがいてもおかしくない。

 となれば秘密基地の抜け穴から逃げるのがベター。

 そこまで考える余裕すらアマトにはあったのだ。


 今からでも弟を助けるべきか、それとも抜け穴から逃げるべきか、葛藤の渦にのまれるヒガサ。


「逃げろ! バカ兄貴!」


 この期に及んでまだ迷っている情けない兄の背中を、弟が押す。

 今まで兄に対してアマトがそんな暴言を吐いたことは一度も無い。

 それがかえって、状況の窮境さを物語っていた。

 そして否が応でも決断せざるを得ない時が訪れる。


「クソ! 放せ!」


 遂にアマトは捕らえられた。


「チッ! このガキャ! 黙ってろ!」


 暴れるアマトの頭を、男が銃のグリップで叩きつけた。

 残された時間は少ない。

 葛藤の渦中で正気を失いかけていたヒガサの頭に、ある言葉が浮かび上がる。

「僕の分まで生きて」というアマトの想いだ。


 そこでようやく意思が固まったヒガサは、周囲に影が見えないことを確認しクローゼットへ向かう。

 極力足音を立てないように、それでいて素早く走った。

 三人家族が住まう一軒家、広さなどたかが知れている。

 しかし今の幼き少年の歩幅では果てしなく遠く、危うい。


 アマトが玄関の方に男たちを引き寄せくれたおかげで、ヒガサは無事に秘密基地へ到着した。

 そして抜け穴を潜り抜け、脱出に成功。

 もちろん見張りはおらず、容易に離脱できるだろう。


 心残りはある。

 自分が助かるくらいなら、変わりに死んで弟や母親を助けたい。

 しかし自分はそれができない弱者であることも十分理解した。

 やるせない。

 ただ、やるせない。 

 だからこそ走り出す。

 振り向かず、ただ走り続ける。

 振り向いてしまえば、再び迷ってしまうかもしれないからだ。


 そんなヒガサを呼び止めるかの如く、籠った銃声が轟いた。

 自分の意思とは関係なく、ヒガサの体は音の鳴る方へ振り向く。

 彼は運がいいのか悪いのか、丁度自宅の窓からリビングの様子がうかがえる位置にいた。

 いっそのこと、見えない方が良かったのかもしれない。


 ソファの背もたれに全体重を乗せ、ぐったりしているのは血に塗れたハル。

 首は座っておらず、天井を仰ぎ見てピクリとも動かない。

 先の銃声は、ハルの眉間を貫いた時のものだったのだ。

 そしてそのすぐ近くで大の大人に首根っこを掴まれ、持ち上げられた非力な少年の額には、銃口がピタリと密着している。


 ヒガサは目を逸らすべきだった。

 しかしできなかった。

 今後の人生における責務を心の奥底に刻み込むためにも、見届けなければ。

 母親が、弟が、家族が殺される瞬間を脳の海馬に焼きつけなければ。

 そんな深層心理が、目を逸らすことを許さなかったのだ。


 そして非情にも、室内から籠った銃声が漏れ出す。

 銃弾がアマトの眉間を貫いたことは言うまでもない。


「クソ……クソがぁ…………」


 ヒガサは必死に感情を、声を、押し殺した。


「絶対に……俺が絶対に…………」


 できる限り喉を絞り、声をこぼさぬよう首に力を込めた。

 額に浮かぶ血管が張り裂けてもおかしくないほどに。

 だが今はそうするしかなかった。

 今さら戻って何ができよう。

 家族を目の前で失った悲しみと、助けられなかった悔しさ、それどころか弟に助けられてしまったという情けなさ、世界の残酷さ、今後の不安や恐怖、ありとあらゆる感情がヒガサの脳内を蝕んでゆく。

 それでも少年は走り続けた。


 それは、よわい十の子には、あまりにも重く、辛い経験だった。




※※※※※※




「弟がいつも頼ってくれるから、どっかで驕ってたんだと思う。偽物だったんすよ、俺の正義感ってのは。だから俺は弟の分まで生きなきゃいけない。でも弟みたく誰かを助けるために、このちっぽけな命を使わなくちゃならない。厄介なパラドックスの中に閉じ込められてんすよ……」


 少しばかり、沈黙が続く。

 忘れたいが忘れられない過去を思い出したヒガサは、様々な感情が今にも暴れ出しそうだった。

 それを察したセツナは、少年が少しでも落ち着けるよう間を置いたのである。


 しばらくして、セツナが開口する。


「――――強いな。君は。ひょっとして、昨日の三人の中にいたのかな? 君の家族を殺った男が」


「いや、昨日のは三人とも弟を殺した張本人じゃない。でもボスがどうのこうのって言ってた。顔は覚えてないけど、俺の家族を殺したやつがそのボスってやつかもしれない。だから俺は少なくともそれを刈り取るまでは絶対に死ねない」


 心の底を打ち明けたヒガサ。

 その強い意志に応えるようにセツナが唐突に立ち上がり、片手を天高く挙げて、


「気に入った! 君、合格!」


 勢い良く手を振り下ろして少年を指差した。

 くわえて満面の笑み。


 合格?

 いやなにが?

 と困惑するヒガサは、様々な疑問をひらがな二文字に込めて、


「ふぇ?」


 直角に首を傾げた。


「復讐が叶うかどうかは君次第だけど、終身刑を免れる方法ならある!」


「マジでか!?」


「あぁ! 君も僕と同じく、特脳捜査官とくのうそうさかんになることかな!」


 聞き馴染みのないワードに、ヒガサは再び首を傾げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る