第3話   脳10%神話

 黒いスリーピーススーツに、ブルーシルバーの髪、整った顔立ち、絵に描いたようなイケメン。

 黒地のネクタイには、縦に一本白い線が通っている珍しいデザイン。

 どうやらヒガサは、どこからともなく現れた男に強烈な蹴りをお見舞いされたようだ。


 とはいえヒガサおののかず、のっそりと立ち上がって男を睨みつけた。

 顔に刻まれた電紋が放つ紫の光は、さらに濃く、眩さが増している。


 右足を後ろに引いて踏ん張ったヒガサは、恐ろしい速度で男をめがけてラグビーを彷彿とさせるタックルをかます。

 あまりの速さに男は反応できず、腰周りをガッチリホールドされた反動で傘を手放した。

 そして勢いを落とすことなく転落防止柵をいとも簡単に突き破り、男を道連れに落ちてゆく。

 ヒガサに押されながらも、男は少女の目の前に落ちた傘を指差して、


「お嬢さーん! それ良かったら使ってー!」


 と、まだまだ余裕の表情。


「は、はい! って、えぇええ!?」


 いや、それどころじゃなくね!?

 と言わんばかりに少女は叫んだ。


 建物は概ね十階建て。

 このままの勢いで地面に落ちたら一溜もない。

 落下しながらネクタイを緩めた男は、


「おーい、聞こえるかなー?」


 腰に巻きつく少年に呼びかけるが、反応は無い。

 悠長にしている間も無く、地面はすぐそこ。

 ヒガサに腰を固定されて身動きが取れない男。

 このままでは後頭部を地面に叩きつけられて即死するだろう。

 しかしそれは、彼がただの一般人であれば、という話。


 激しい地響きを鳴らしながら、土煙を巻き上げて派手に着陸した二人。

 いや、実際は二人ではなく一人。


「ふぅ。大丈夫かな?」


 頭を地面に打ちつけるどころか、男は二本の足を大地にめり込ませて着地したのである。

 くわえて、ヒガサを赤子のように優しく抱き寄せ、気遣いの言葉をかける始末。


 男の腕の中で腹を立てたヒガサは歯を食い縛り、釣り上げたばかりのカジキマグロのように跳び跳ねて距離を取った。


「っと、活きがいいなあ! それよりなにかなそのイカした傷!」


 相も変わらず余裕綽々な男は、紫に光る電紋に興味を示した。


「…………」


 ヒガサも変わらず反応無し。


「無視かい……」


 肩を落としてしょんぼりした男。


 その後、即座に男と肉薄したヒガサは、パンチやキック、あらゆる攻撃を繰り出す。

 紫の電紋が描く残像は、もはや幻想的。

 一打一打が凄まじい威力だが、男はそれ以上の身のこなしでいとも簡単に避け続けている。

 しかしある瞬間、ヒガサが一寸の硬直を見せた。

 ヒガサと言うより、これはヒガサの肉体に限界が近づいているアラート。

 言わずもがな、男はその隙を逃さない。


「ソイヤッ!」


 お祭りで聞こえてきそうな陽気な掛け声とともに、男はヒガサの足を払う。

 そして体勢を崩したヒガサの胸ぐらをガシッと掴み、


「ヨイショォォオ!」


 一本背負い。

 その背負い投げには一切の容赦は無く、ヒガサは10メートル、いや20メートルは飛ばされた。

 これにはさすがに受け身を取れず、コンクリートの壁に激突。

 しばらくすると、崩壊してゆくコンクリートやら巻き上がった塵やらの隙間から、紫の光が漏れ出す。


「驚いた。まだ立てるのかな」


 感心を見せた男の視線の先。

 ヒガサはまだ闘う意志を見せ、立ち上がろうとしていたのだ。

 だが身体はもうボロボロ。

 足も震えており、立ち上がっては片膝をついて、というふらつき具合。

 それに、外傷だけではなく、直撃雷の影響で内蔵も損傷している可能性もあり、心臓がいつ止まっても不思議ではない極限状態。

 言わば、三途の川をバタフライで遡上そじょうしているようなもの。

 産卵期の鮭でさえ遡上する時の生存確率は数%と言われているのに。

 そんなヒガサの様子を見て何かに気づいた男は、


「なるほど。ランペイジか。仕方ない、楽にしてあげようかな」


 殺意に満ち溢れたヒガサに臆することなく歩み寄る。

 全く警戒せずに目の前に立った男に対して、ヒガサは最後の力を振り絞り、正拳を押し出す。

 が、先ほどまでキレは無く、弱々しいパンチ。

 猫にパンチをさせた方が幾分かマシなほど。

 男は、まるで小蝿こばえをあしらうかの如く、ヒガサの弱小パンチを軽く払い除けた。

 そして今にも倒れそうなヒガサに、


「御免!」


 男の拳が顎を捉える。

 たったの一発。

 男が命中させたパンチは脳を揺らし、見事にヒガサの意識を奪ったのである。

 それは主人格であるヒガサの意識を奪うことと同義。

 気絶すると同時に、電紋は紫から橙に戻ってゆく。


 グタッとなったヒガサを丁重に受け止めた男は、優しく担ぎ上げた。

 その後、少女のいる屋上を目指してひとっ飛び。


 見事に屋上に舞い戻ってきた男を見て唖然とする少女。

 階段からではなく空を飛んできたのだ、驚きを隠せないのも当然。


「待たせたね! 君も一緒に来てもらうけど、いいかな?」


「は、はい……」


 斯くして、突如現れた謎のイケメンにより、少年少女は事なきを得たのであった。




※※※※※※




 翌日。

 ヒガサはベッドの上で目を覚ました。

 ズキズキと脈を打つ音が体内で反響しており、頭が圧迫されている。


 場所は、病室?

 窓が無いため外の様子は伺えないが、とにかく助かったらしい。

 ヒガサに奪われていた身体の制御権もいつの間にか取り戻している。

 そもそもあの感覚は何だったのか、ヒガサが気絶させた三人はどうなったのか。

 と、脳内にクエスチョンマークを増やしてゆく。


 漠然と脳内を整理整頓していると扉が開かれ、男が入室。

 少女を手にかけようとしたヒガサを止めてくれた男だ。


「目が覚めたのかな。天若ヒガサくん」


「あんたは……」


 ヒガサは上体を起こした。


「僕は捜査官の東雲しののめセツナ。よろしくね」


 差し出されたセツナの手を、訳も分からないままヒガサが握り返す。

 しなやかな見た目からは想像できない丈夫な手。

 そしてヒガサはその時、ふと思い出す。


「そうだ! あの子は!」


「あぁ、君が手にかけようとした少女のことなら無事保護したかな。でもちょっと彼女の件は厄介だから、忘れてくれると助かる」


「そっすか……まぁ、無事ならなんでもいいっす」


 ベッド横の椅子に腰かけたセツナは、人差し指と親指で顎をつまみ、


「さて、何から話すべきか…………」


 眉をねじ曲げて斜め上を仰ぎ見た。

 そして口をパカッと開いて、


「そうそう! 君、終身刑ね」


 衝撃的な事実を、梅酒のようにさらりと告げた。

 人間の脳は不思議なもので、予想だにしない言葉を聞いた時、僅かばかり処理が遅れることがある。

 今のヒガサは正にそれ。

 ワンテンポ、いやツーテンポ遅れて、


「しゅ、終身刑!?」


 100点満点のリアクション。


「うん。若者の未来を奪うのは心苦しいけど、大人の世界ってのは情が無いんだ」


「いやちょっと待ってよ! 人を殺したわけじゃないのに!」


「まぁまぁ落ち着いて。順を追って説明するかな」


 取り乱す少年をなだめたセツナは、ポケットからハンドグリップを取り出した。

 手持ち無沙汰な時、握力を鍛えるあの器具だ。


「ほい。これ全力で握ってみてくれるかな」


「なんすか急に。そんなことより終身刑って――――」


「いいからいいから」


 ヒガサの当然の焦りに、セツナが言葉をかぶせる。

 結局意図が掴めないまま、少年はハンドグリップを渋々受け取った。

 先日、高校で行われたスポーツテストでは、彼の握力は43キロだった。

 平均か、それを少し上回る程度。

 弱くもなく強くもない。

 いったいこのハンドグリップが何キロのものなのかは分からない。

 が、ヒガサは一応全力で握った。


「え、かるっ」


 拍子抜け。

 全力で握れと言われたがゆえに、それなりに重いものだとヒガサは予想していた。

 しかし、いざ力んでみると、まるで紙屑のように簡単に握り切れたではないか。

 それを見ていたセツナはパンパンと手を叩いて、


「お見事!」


 バカにするように称賛した。


「いや、だからこれがなんなんすか……?」


「そのハンドグリップ、200キロだよ」


「に、にひゃく!?」


 200キロ。

 ギネス記録である192キロを超える重さ。

 忘れてはならないのが、あくまでもこのハンドグリップの重さが200キロであるということ。

 軽々と握り潰したことを鑑みると、ヒガサの握力は200キロどころではない。

 実際に計測したのなら、いったいどんな数値を叩き出すのやら。


「いやこれ、でも……」


 ヒガサはその異常を飲み込めず、今度は徐々に握る力を加えてみた。

 すると妙な感覚に気づく。

 今まで漠然と把握していた力の限界ラインを容易に超え、みるみる力が入り続けるのだ。

 決してハンドグリップが軽いわけではなく、普段見えていたはずの力の天井が果てしなく遠くなったのである。


「な、なんだこれ……」


 驚きを隠せないヒガサは、ハンドグリップをセツナに返し、自分の手の平を眺め始めた。

 自分にはこんな力が、いや人間にはこんな力が秘められていたのかと。


「ヒガサくんは〝脳の10%神話〟って聞いたことあるかな?」


「あー、人間は脳の10%くらいしか使えてないってやつっすか? 知ってるけど、あれって嘘なんでしょ?」


「いや、嘘じゃないかな。そういう風に政府が情報を操作してるだけで、実際はほとんどの人が脳を10%以下しか使えてない」


「マジか」


「大マジ。ま、脳の領域で言うと100%使えてるんだけど、各機能の使用率には制限がかかってるかな」


「なるほど……分からん」


 眉間にシワを寄せるヒガサ。

 そんな彼にも理解できるよう、セツナが補足する。


「綱引きをイメージすると分かりやすいかな。全員が綱を引っ張ってるように見えても、各々が全力かどうかは分からない。それと同じで、脳の全領域が活動しているように見えても、各機能の使用率は100%じゃないってこと」


「な、なるほど……」


 ヒガサはさらに眉間のシワを深くしながら、


「てことはもしや! 俺はその制限とやらが解けて100%の力を発揮できるようになったと!?」


「アハハ! んなわけ! 昨日の君は少し特殊なケースだけど、今の君は解除率40%くらいかな!」


「ちぇっ、つまんね……。あれ、でもなんで俺、その制限ってのが解除されたんだろ」


「それは臨死体験が原因かな」


「臨死?」


「要するに死に直面するってことかな。生き延びるために脳がフル稼働することで制限が一部解除されるって仕組み。何か心当たりは?」


「ある! 屋上で雷に打たれた時、死んだって思った!」


 すると、セツナはヒガサの顔に刻まれた光る電紋を不思議そうに眺めながら、


「そうかそれでその傷。でもどうして光ってるのかな?」


「え? 傷? 光ってる?」


 そういえば、雷に打たれてからヒガサは自分の顔を見ていないため、そもそも電紋が顔に残っていることすら気づいていなかった。

 そこでセツナは、鏡の代わりにスマホのインカメラを起動して、ヒガサの前に構えて顔を写す。


「な、なんこれ!? なんかヒリヒリすんなーとは思ってたけど……つかマジで光ってるし!」


 額から左目を縦断し、首元まで連なる電紋は依然として橙の光を放ち続けている。

 しかしこの時、楽観的なヒガサは「ちょっとカッコよくね?」などと思っていた。


「これはアイツに見せたら発狂するかな……ま、一応失礼して」


 セツナは何かを危惧しながらも、パシャリとヒガサの顔を撮影。

 そしてスマホをポケットにしまい、逸脱した話を元に戻す。


「制限解除のトリガーはその落雷で間違いないね。ちなみに脳の制限解除に成功した人間を総称して〝ニューク〟と呼んでる」


「ニューク……恐ろしい力っすね……」


「そう。恐ろしい。そんな危険な力を持った子供を国が放っておくと思うかな?」


「え、終身刑の理由ってまさか……!?」


 気持ちのいい〝パチンッ〟という音を指で鳴らしたセツナは、


「エグザクトマンッ」


 憎たらしいフランス語を披露した。

 ちなみに〝その通り〟という意味。

 どうせ何かのきっかけで知った単語を言ってみたいだけのやつだろう。


「おいマジか」


「残念ながら、政府ってのはそんなもんよ。国会議員の汚職を捻じ曲げたり、情報操作だってお手の物。裁判所なんか通さずに終身刑と偽って、君のようなニュークを研究所に拉致することだってね」


「終身刑って、そういう意味だったのかよ……俺はモルモットじゃねぇっつの!」


「ま、モルモットってもそれなりに待遇はいいんだけどね~」


 ヒガサは高校二年。

 子供と言えど、ガキじゃない。

 社会の汚い部分くらい気づき始めてはいた。

 しかしここまで。

 ここまでやりたい放題なのかと、国に、世界に失望した。

 だが大人しく、はいそうですかと納得はできない。

 納得してはならない理由が、彼にはある。


「ったく……七年だぞ。七年間、進展が無かったんだ。それなのに……」


 脳裏に焼きつく記憶が、ヒガサの全身に震えをもたらす。


「ほぉ。何か訳アリのようだね」


「俺は…………俺は十字架を背負ってる……」


 震える体を落ち着かせながら、七年前に起きた事件について、ヒガサが打ち明ける。

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