3度目
モータから紹介された宿屋は、
パーサート領の東にあった。
何日滞在するか分からないので、
いくらか先払いさせて欲しいと
宿屋の店主の男に言ったのだが、
シエロノーテの人間ということで、
後払いでいいと言われた。
しかもかなりいい部屋を
二人分用意してくれたのだが、
それはさすがに気が引けると言ったら
残念そうに頷いてくれた。
「少し外の風に当たってくるよ。」
夕食までには時間があるので、
フィエゴは一旦外に出た。
オレンジ色をした夕陽が
山の向こうに逃げていき、
徐々に空が闇に染まる。
花火を打ち上げるには
もう少し暗くならないといけないが、
昼とも夜とも言えないこの空の色は
幻想的で好きだった。
「ん…?」
ふとフィエゴの視界入ったのは、
川に釣り糸を垂らしている男。
もうすぐ夜になるというのに、
それを気にする様子がない。
フィエゴが近くに寄ると、
男が何かを言っているのが
少しずつ聞こえてきた。
「大きい魚…魚拓にできる魚…。
大きい魚…魚拓にできる魚…。」
大きい魚。魚拓にできる魚。
繰り返し繰り返し、
同じことを呟いている。
男の周囲を見てみるが、
魚が釣れたような痕跡はない。
というか、何もなかった。
男の身の回りには何もない。
魚を釣ったところで、
入れ物も何もないのに
どうするつもりなのか。
「大きい魚…魚拓にできる魚…。」
男の様子を見ていると、
フィエゴの背筋が寒くなる。
猟奇的で怪異的で、
そこに悪魔でもいるような感覚。
足が竦んで、動けなくなった。
誰かを呼ぼうにも、
ノドを絞められているかのように
全く声が出せない。
これではまるで、金縛りだ。
どうにかこの男から離れようと
必死に打開策を探すが、
普段の冷静な頭はどこへやら、
時間が止まったように
何も思い浮かばない。
そうしているうちに、
フィエゴの気配に気づいたのか、
男がゆっくりと振り返った。
顔がこちらに向いて、
フィエゴと視線がぶつかる。
「んぁ…?フィエゴさんかぁ?」
その田舎臭い特徴的な喋り方、
もみあげと繋がったアゴ髭。
今日会うのはこれで3度目だ。
「あ、あなたは……!」
その男の名前を呼ぼうとして、
フィエゴは言葉に詰まった。
そういえば、まだこの男の
名前を聞いていなかったのだ。
パーサート領についた時に道を聞き、
モータの家から出た時には
綺麗な景色を見せてくれた。
この場所に来てから
一番印象に残っている人物なのに、
フィエゴはその男の名前を知らない。
「あの…すいませんが、
お名前を伺ってよろしいですか?」
見慣れた顔だったからなのか、
すっかり体は動くし声も出せた。
フィエゴのその問いに対して、
男は首を傾げながら答えた。
「エジン…ってのがおいらの名前だぁ?」
彼の言葉の最後の疑問符には、
今更名前なんて聞いて
私に何か用でもあるのか、
とでも言いたげな雰囲気があった。
だが、特に意味などなかった。
単純に、自分に親切にしてくれた
人の名前を聞きたかっただけ。
それだけのつもりだったのだが、
今回限り、フィエゴにおいては、
彼の名前には大きな意味があった。
今日はその名前を
何度も耳にしていたから。
「そう…でしたか……。」
なんとなくではあるが、
フィエゴの中で腑に落ちてしまった。
モータとアクルの言っていた、
とにかく変な人というエジン。
確かに、彼を一言で説明するなら
それが一番適しているだろう。
実際にエジンを目の当たりにして、
フィエゴは納得した。
ろくに道具も揃っていないのに、
しかも夜に釣りをするなんて、
とても正気とは思えない。
「あの…エジンさん。
今は何をしてたんですか?」
釣り糸を川に垂らしているのなら、
それはどう見ても釣りなのだが、
エジンに限っては
それ以外の何かがありそうだった。
エジンは視線を川に戻すと、
竿をあげて針を手繰り寄せた。
仕掛けの先には魚の切り身が
豪快につけられているが、
何かに食べられたような痕跡はない。
「大きい魚…魚拓にできる魚…。」
また、エジンは同じことを言った。
その言葉の真意が分からず、
フィエゴがもう一度聞こうとすると、
エジンは遠くを見つめながら言った。
「…おいら、もうすぐこの村から出て
西大陸に行くことになってんだぁ。
だけどぉ、その前においらは
思い出が欲しいんだぁ。
おいら忘れん坊だから、
ずっと忘れられない思い出をなぁ。」
そして、エジンは自身のことを
フィエゴに語って聞かせてくれた。
今まで誰にも言ったことのない、
エジンの隠された秘密のことを。
その話を最後まで聞いたフィエゴは、
心に大きな決意を持って
エジンに言葉を送った。
「エジンさん。俺に任せてください。
このフィエゴ・シエロノーテが、
最高の思い出をあなたに贈ります。」
フィエゴが言いたいことを、
エジンは理解できないようだった。
けど、今はそれでいい。
あと4日も過ぎたら、
その時がやってくるのだから。
フィエゴはエジンを説得して
釣りを切り上げさせると、
エジンの背中を見送ってから
宿の部屋へと戻っていく。
そして、窓の外を見て言った。
「最高の花火、咲かせてやるからな。」
すぐにエステリアを呼んで
フィエゴは今回の依頼の
終点について説明すると、
エステリアは全て理解して
宿屋の店主のところへ
あるものを借りに行った。
エステリアが帰ってきてから
二人で宿屋の夕食を食べた後は、
本格的な作業を明日からにして、
二人一緒のベッドに寝転がった。
兄妹だからといって、
歳若い男女が同じベッドで
寝るなんて普通は有り得ないが、
二人は全く気にしない。
瞼を閉じるフィエゴの脳裏に、
エジンの顔がチラついていた。
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