第89話 アキト「また飲んでる……」




 え? メノさんがお風呂上りにあられもない姿で現れたり、俺がお風呂に入っている際にメノさんが覗きに来るなんてラッキースケベのようなことはなかったかって?


 うん、なかった。何もなかったよ。


 強いて言えば、というか、俺のような純情少年(享年二十五歳)からすれば、パジャマ姿かつ、お風呂の熱気で上気した顔や体から湯気をほのかに立ち上らせながら、警戒心の欠片もない安心しきった様子を見せられたのだから、これだけでも十分すぎるぐらい心臓バクバクである。


 そしてお風呂に入っている時もそうだ。


 メノさんが使ったあとの湯船である。緊張しないほうが紳士としておかしい。いや、おかしいのか? ともかく、そんなことも冷静に判断できないぐらいには、脳みそが忙しかった。


 そして風呂を上がってみると、


「……晩酌」


 どこから持ってきたのか、ワイン樽がテーブルの上に乗せられていて、そして二つのグラスにはなみなみとワインが注がれている。香りが飛ぶことよりも、俺に飲酒を強制させることを選んだらしい。


「絶対やめたほうがいいと思う。いやほんとに。メノさんこの前自分が酔っ払ってどうなったかわかる? 記憶にある?」


 俺が無防備になったメノさんに欲情するとかじゃなくて、メノさんに襲われそうな気がするんだよ。酔っ払った時の彼女、すごく甘々になっちゃうから。


「そもそもメノさん、お酒あまり飲まないって言ってただろ?」


「……お祝いだからいいの」


「なるほどお祝い――そう言われたら拒否するのも申し訳ないか。いや別にさ、メノさんにお酒を飲んでほしくないとかそういうわけじゃないんだよ。わかるか今の状況? 俺とメノさんが両想いであることが確定し、結婚を約束した恋人状態。さらに同棲開始一日目で、一緒の布団で寝ることも決まっているんだぞ? 万が一俺の理性が吹っ飛んだらどうするんだ」


「……吹っ飛べばいいのに」


「だからなんでそんなに無防備なの!?」


 唇を尖らせて、不満そうにするメノさんに突っ込む。

 二人きりだからなのかな? もうすでにいつもの調子とは違う気がするんだけど――って、もしかしなくても、メノさんもう飲んでる?


「湯上りにしては頬の赤みが引いてなさすぎる……」


「……これは二杯目、アキトが遅いのが悪い」


「三十分もお風呂に入ってないんだけど」


「……三十分寂しかった」


 やっぱりメノさん寂しがり屋だー! 三十分別室にいるだけでお酒に頼ってしまうほどの寂しがり屋だー!


 もし俺とメノさんが日本に暮らしていて、出勤をするのを見送ったりするときがあったら大変だろうな。付いてきそうなレベルである。もしくは泣きそう。


 まぁそんなありもしない過程はさておき。


「じゃあそれでおしまいだからな? この前はもっと飲んでいたし……前よりマシと考えたらセーフだろう」


 そう言いながら、俺はメノさんの隣の席に腰を下ろす。リビングのソファではなく、ダイニングの椅子だ。


 彼女は即座に俺の目の前にワインの入ったグラスを滑らせてきて、俺に飲めと視線で訴えかけてくる。はいはい、飲みますよ。


 アルコールがあまり効かないからか、俺はそこまでお酒にハマることはなかったけれど美味しいことはたしかなんだよなぁ。なんの果実だっけ? マルプって言ったか?


「――うん、やっぱり美味しいなぁ」


 落ち着く。疲れが癒される気がする。別に体は疲れてないんだけど、精神的な疲労が回復していく感覚だ。このマルプのワインにそんな効果はないだろうが、めちゃくちゃ美味しい食べ物や飲み物は、味覚を刺激するだけで幸福感をもたらしてくれる。


「……アキト」


「ん? どうし――んぐっ!?」


 横を向いた瞬間、そこにはメノさんの顔があって、俺がのけぞるよりも速いスピードでこちらに接近。見事に俺の唇が奪われた。しかもそれだけでは終わらず、


「んー! んー!」


「…………んー」


 メノさんは俺の後頭部を抱え込み、ひたすらに唇を押し付けてくる。

 知識とは知っているのだ。フレンチ・キスとやらを。ディープキスとも呼ばれる、その、なんというか、舌を絡めるようなキスのことを。


 だがしかし、それはあくまで俺の知識の話。そしてこの世界にその行為が存在するのかも俺は知らないのだが、メノさんの行動は、ただひたすら唇の密着だった。


 付き飛ばすようなことはできないし、俺は諦めてメノさんの好意の行為に身をゆだねた。ゆだねた結果、鼻呼吸を五分ぐらい強いられることになった。あなたまだお酒一杯しか飲んでいないでしょうが。お風呂で体が温まっていたから、アルコールの周りが速かったのかな? なんてことを、メノさんの顔が目と鼻と唇の先にある状態で考えていた。


「……ファーストキスだった」


「あ、あぁ。それは俺もなんだけど、それにしては随分と熱烈なキスだったな」


「……ふふん」


 なんで自慢げにしてるんですかねぇ。

 ドヤ顔を俺に披露した彼女は、ワインの入ったグラスを手に取り、美味しそうに飲む。「……んふー」という声が漏れ出していた。


 グラスを置いて、メノさんがゆっくりと息を吐く。そして口を開いた。


「……アキトがこの世界に来てくれてよかった」


 急にしんみりとした空気になった。これもアルコールパワーなのだろうが、別に嫌なわけではないので俺も彼女のテンションに合わせることに。


「そうだなぁ、俺も来られて良かったと思うよ。異なる世界に住む人が出会う可能性なんて、天文学的確率だろうし」


 異世界に転生する確率は、それなりにあったのかもしれないが、異世界だって十や二十じゃないだろうし、その中の一つの世界で生まれ変わり、人と出会うってのはすさまじい運命だと思うのだ。


「もちろんメノさんに出会えたことが嬉しいってのはあるけど、他の人たちとも出会えてよかったと思うよ」


「……私も、最期の時のことはあまり考えたくないけど、アキトがいるなら我慢する」


「不老だもんな……でも、それは受け入れよう。永遠の命をもらって、なんの代償もないってほうがそもそもおかしいんだ。むしろプラスであることを、ちゃんと自覚しようぜ。出会いがあるなら別れもある。不老だろうがそうじゃなかろうが、それは一緒だ。見送るか見送られるかって違いはあるけどさ。まぁなんというか――それが自然な中で、俺とメノさんに別れはないんだから、いいことじゃないか?」


「……うん」


 ちょっと長ったらしく語ってしまったけど、今の俺の気持ちが正しく伝わっていたらいいなと思う。俺は少しも酔っていないはずなんだけど、口がちょっと緩くなっているのかなぁ。



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