やればできる

「……失礼します」


 放課後。俺は担任の先生である内川先生に呼び出され、校舎内で使われていない区画にある空き教室に訪れていた。


 授業が終わった後の校舎内はとても閑散かんさんとしていて、聞こえてくる音といえば少し遠くの廊下を移動する生徒や先生の足音、もしくは校庭で遊んでいる生徒たちの騒ぐ声くらいだ。


 教室入口のドア前には『使用教師:内川』の文字が書かれたホワイトボードが掛けられ、どの先生がこの空き教室を一時的に使用していることが分かるようになっている。


 変な緊張からつい扉をノックすると、内川先生の「入っていいですよ」という声が落ち着いたトーンで聞こえた。

 彼女が担任となってからの期間が長いわけではないが、普段と変わらない声色だったので、あまり怒っているわけではないのだろうと少し安堵する。


 幾つになっても怒られるのは嫌だなと目を瞑って軽く呼吸を整え、教室のドアをゆっくりと開けた。


「こっちにどうぞ、如月くん」


 室内は綺麗に片付き、最低限の道具しか置かれていない。あったのは学生用の机が四つ、二つずつ横並びになった机が向かい合わせになり、まるでこれから三者面談でもするような状態に見える。普段はそういう用途で使っているのかもしれない。


 すでに先生は向かい合わせになった机の前に座り、椅子の側に置かれたかばんから幾つかのプリントを取り出して用意している。それを見て顔をしかめると、内川先生は苦笑いを浮かべた。


「そんな顔をしないで、さぁほら」

「……はい」


 促されるまま先生と対面する向かいの席に座る。彼女は側に置いた鞄の中から分厚い紙の束を纏めたケースを取り出し、パラパラとめくった。


「さっきの授業で出した問題、ちょっと意地悪だったかな?」

「あー……」

「方程式に関数。何年も前はもっと後に勉強する内容だったんだけど……最近の子は大変だよね」

「そう……ですかね?」


 転生してから度々思っていたことだったが、確かに求められる学力のレベルは高いなと薄々感じていた。単純な足し引きだけではなく、嫌らしい引っ掛け問題なども当たり前のように出てくるし、前世では中学生で習うような内容の授業が普通に行われている。


 それとは別に俺が授業をサボって半ば寝ているせいでもあるのだが――。


 とは言え小学生の平均学力が非常に高いのは間違いない。俺の知る日本との違いというやつなのだろうか。


「でも大丈夫!」


 先生はそう言って机の下を通るように両手を伸ばし、俺の手をギュッと掴んだ。いきなりのことに動揺した俺は慌てて手を離そうとするが、子どもの力では、女性と言えども大人の手を引き剥がすことはできない。


 手首に指が絡みつき、離れないように力が籠もった。


「居眠りしていた分も含めて、先生がちゃんと教えてあげる。みんなに追いつけるように……ね?」



 放課後の空き教室にて、先生と一対一での授業が始まった。


 内川先生は座っていた席を離れ、教室の出入り口を塞ぐように俺の隣に座る。そうして俺と先生は隣り合ったまま、先ほど特別に作ったという算数の問題が記載されたプリントを解くように言われた。


「ここは分かる?」

「……こうですか?」

「うん、いい調子」


 最初は少々緊張したが、慣れてしまえばさほど気にならない。逆に考えれば美人な先生と一対一で勉強会ができるのだ。これは罰ゲームというよりご褒美じゃないか?


 隣合う先生からは時折甘い匂いと、それを隠すように薄らと汗の匂いが漂ってくる。俺は身体能力の高さゆえか、嗅覚も強く、本来は判別不可能な多少の匂いも嗅ぎ分ける事ができる。

 だからこそ彼女が若干緊張していることが分かった。


「先生、こうですか?」

「そうそう。合ってる合ってる」


 やはり生徒に問題を教えるのは緊張するのだろうかと思いつつ、テンションの上がってきた俺はプリントの内容をサクサクと解いていく。

 テストに出そうな嫌らしい問題はいくつかあったが、先生はそれらを一つ一つ丁寧に、わかりやすく説明してくれるため、あまり苦も無く勉強は進んだ。


「先生これ――」「内川先生終わりました――」「先生――」




 答え合わせを並行で行いつつも、熱心に反応してくれる彼女と軽い世間話も交わし、最後のプリントを書き終えた。


「内川先生、これで最後ですよね。終わりました!

「……ええ、そうね」


 六枚にも及ぶ算数や国語、社会といった基本的な科目のプリントを全て消化した俺は、椅子に背中を預けて一息ついた。他科目はいくつか怪しいところはあったが、それはそれ、授業を寝てサボっていた分はこれでいくらかチャラにしてくれるらしい。


 外が少し暗くなってきたのを見て、俺は教室前方の黒板上部に設置された時計に目を通す。壊れていなければ、時計は午後五時半を指していた。

 一時間くらいは勉強しただろうか、久々にいっぱい勉強をしたので、少し疲れてしまった。


「――うん、どれも80点以上。やればできるじゃない」

「ありがとうございます。先生!」


 採点を終えた内川先生がプリントをまとめ、クリアファイルに挟み込む。そしてそのファイルを机の上に置くと、先生は俺の太ももに手を置いた。


「――ねぇ、如月くん?」


「どうしました、先生?」

「声、とってもかっこよくなったね」


 声。そう言われてみれば今日、声変わりをしたことを思い出した。回復魔法が効いてきたのか、喉の違和感は一切無いし、呼び出された衝撃が大きすぎてあまり気にしていなかったが、他人から改めて自分の声を指摘されると変な気分だった。


「声? えっと……そうですかね?」

「うん、すごく良い。……そうだ、如月くん。私の名前ちょっと呼んでみてくれない?」

「……名前?」

「そう、内川先生って」


 ……なんだか変な雰囲気になってきたような。俺は少し戸惑いつつも、彼女の様子を伺うために顔を上げた。


「――綺麗な眼をしてるのね」

「う……内川先生?」


 顔を上げた先には、見下ろすような姿勢で俺を見つめる、うっとりした表情を浮かべた先生の顔があった。


 倒れ込むように、ゆっくりと身体を近づけてくる先生に対し、反射的に距離を取ろうと身体を動かそうとする。しかし、それよりも早く彼女の右腕が俺の左肩を掴み、その場に身体を固定してくる。


「今日の朝から良い声してるなぁって思ってたけど、改めて貴方の声を聴くと、凄くドキドキしちゃう」

「先生、あの……?」

「私の名前は先生じゃなくて真由美。ほら、呼んでみて?」


 太ももに乗っていた彼女の手が、椅子を掴んでいた俺の右腕に絡みつく。椅子から立ち上がろうするが、肩と腕を抑え込まれてしまっては動けない。


 ここまで来てようやく俺も気づく。


「(……これ、もしかして襲われてる?)」


 何が彼女の琴線に触れたのか分からないが、内川先生は俺のことが気に入ったらしい。それはそれで嬉しいが、年齢差的に犯罪に片足突っ込んでいるのは間違いない。

 担任である内川先生を犯罪者にしてしまうのは心苦しいと思い、彼女を止めようとチートを使うことを決心した。


「……先生。俺の眼を見て」


 俺の言葉を聞いて少し拗ねた表情を浮かべた彼女は、唇を小さく尖らせて俺の眼に視線を向ける。瞳が向き合い、視線が混じり合ったタイミングで彼女は大きく目を見開いた。


 ここで催眠チートを使用するため、瞳に力を込めた。


 瞳を通じて彼女の意識を支配し、思考を一瞬曇らせて真っ白の状態へと変える。すると彼女はピタリと動きを止めて、呆然とした表情でこちらを見つめたまま固まった。彼女の瞳からは光が失われ、意識があるのかどうかも分からない状態へと陥った。催眠は無事成功したようだ。



 意識があるが夢の中にいるような彼女の状態。これは人によって様々な言い方があるが、いわゆる催眠状態の入口と呼ばれるものだ。

 この状態になると対象が持つ素の倫理観にもよるが、ある程度なんでも言うことを聞いてくれるし、この状態での出来事は記憶に残らない。


 ただ倫理観による――というのが肝で、何でもかんでも言うことを聞いてくれる訳では無い。

 まともな倫理観の持ち主であれば「ここから飛び降りろ」とか、「人を殺せ」のような命令は聞いてくれないし、対象が話したくないと強く思っている内容について聞き出したりもできない。


 俺のチートによる催眠は暗示に近いものでしかないため、今以上に対象を問答無用で従わせるにはもっと強力に精神へと働きかける力が必要になる。目、耳、鼻、口、もしくは痛みによる刺激でも良いので、対象の精神を強烈に揺さぶることができれば、何でも言うことを聞かせられるようになる……はず。

 ただそんなことをするには監禁や暴力といった洗脳に近い手段が必要になるので、相手を問答無用で操りたいのであれば魔法で洗脳してしまったほうが早い。



 このままだと押し倒されるので、彼女をゆっくりと押し戻して椅子に座らせる。


 ……なんて言って戻そうか。忘れろ? じゃ駄目か。


「……先生」

「……はい」

「貴方が今日やろうとしたことは気の迷いです。本心じゃない。倒れ込みそうになった俺を支えた。それだけです」

「……は、い」


 先生は瞳から一筋の涙を流して、そう答える。催眠状態は目が開きっぱなしになるから目が乾いてしまうのが問題だな。


 内川先生の催眠状態を解除してやれば、俺の身体を掴んだ状態のまま目を瞬かせ、ゆっくりと退いた。催眠の良いところは多少の齟齬を相手が都合よく解釈してくれるところが良い。


「わ、私……あれ?」

「先生。椅子から落ちそうなところを助けてくれて、ありがとうございます!」

「えぇ……そうね、そう……」


 まだ思考が安定していないようだが、直に意識ははっきりしてくるだろう。


 彼女から視線を外して外を見ると、すっかり暗くなってしまっていた。帰るにしてもそこそこ歩くので、必然的に帰りは遅くなる。これは親から怒られるコースかなと辟易していると、コツコツと廊下を歩く足音が聞こえた。

 足音は小さい。大人が歩く足音ではなく、子供の足音だろう。幽霊でなければ生徒で間違いない。


 足音は俺たちが補修をしていた空き教室の前でピタリと止まり、少しの間を置いてから扉を三回ノックする音が聞こえた。


「木下です」

「……あら、木下さん?」


 扉を叩いたのは茜だった。

 もうてっきり帰っていると思っていたばかりに、少し驚いてしまう。


 茜は扉を開けて教室内をキョロキョロと見渡し、それから俺と先生を視界に捉えた。暗いから良く見えないが、茜は少し怒っているのか、睨むように目を細めてこちらを見ているようだ。


「……テンくん、やっと見つけた」

「木下さんは如月くんを探していたのね。……如月くんも、こんな時間までごめんなさいね」


 内川先生はそう言ってあっさりと俺を解放した。補修で使った問題プリントと解説用紙を渡されて、俺は部屋から出される。先生は去り際に、「居眠りしていたらまた補修するからね」と俺に釘を刺していく。本当に申し訳ない。




 帰り支度を整えてランドセルを背負い、先を歩く茜に付いていく。少し無言が続いていたが、下駄箱で靴を履き替えている最中、彼女は俺に尋ねた。


「内川先生と何かあった?」

「先生と? ずっと勉強していただけだよ」

「……そう」


 詰まることなくさっさと答える。過去から学んだ俺の回答をお気に召したのか、彼女はそれ以上追及することは無かった。


 校門前まで共に歩いていくと、校門の側に黒い車が停まっているのが見えた。見たことがないクルマだったが、茜はその車に向かって一直線に歩いていく。彼女の車だったのね。


 車の前に立つと、触れることなく後部座席のドアが勝手に開く。運転手を見てみると、いつかに彼女の家で見た使用人の女性だった。


「送っていくから、車で帰ろう?」

「え、乗っけてくれるの?」

「ふふっ。当たり前でしょ」


 彼女は俺の手を引っ張って車へと連れ込む。連れられるまま車の中に入ると、心地いい冷房が身体を包みこんだ。


「綾音さん。テンくんも家まで送ってくれる?」

「かしこまりました」


 慣れた様子で彼女たちは言葉を交わすと、それっきり特に会話もなく、車がゆっくりと動き出した。

 心地いい車内の環境に一息ついて、今日のことを振り返りがてら窓の外に映る景色に視線を向ける。


 初めてちゃんと催眠を使った。おそらく悪影響はないと思うが、面倒なことにならなければいいなと思う。少し憂鬱になりつつも外を見ていると、茜も俺と同じように窓の外を見ている。


 ……SSFのデイリー消化したいな。

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