第5話 おうちにお帰り
雪山をはるか下に、銀竜は夜空を飛んでいく。雪女たちが相手をする怨念の
「なにをそんなに憎んでいる?」
前を向いて飛びながら、問いかける。
少年は後ろ首のボロ切れを爪に引っ掛けられ、宙づりにされている。手足をだらんと垂らしたまま、反応はない。
「ヤツらは憎しみに寄ってくる。憎しみの塊は、憎しみを求めて
銀竜の声は、静かな空へ消えていくだけ。
「自分の居場所を奪われたからか? 人として扱われなかったからか? 竜を手に入れる道具にされたからか? それとも――」
不意に、鉤爪が少年を身体ごと握る。前進を止め、宙の一点で羽ばたきながら、銀竜は握った手を顔に近づけた。
「お前さんを
爪にもうわずか力を入れれば、骨と皮しかないような身体は裂けてしまうだろう。鼻先に少年を寄せ、じっと見つめる。翼の羽ばたく風で、少年の前髪があがり、かすかに開いた目と合う。
「……」
輝きを失った黒い瞳は、怨念がまき散らしていたどす黒さと似ていた。感情を失った顔は、人形のような形だけの表情すらなく、物と同じだ。
銀竜がアクアマリンの瞳を細める。だしぬけに翼を羽ばたかせ、少年を握ったまま飛び上がった。宇宙に
オォ――――――ッ!!
静寂の中、どこまでも響くような遠吠えが空気を震わせる。
昇る天の先から、白い幕状の光が揺れながら降りてくる。まるでカーテンがそよ風に揺れるように。幕は白から赤や緑へと色を変え、星空の下で広がっていく。
たどり着いた銀竜は、光の幕を飛び回る。揺れるカーテンをくぐり抜け、ときに突き破り、
少年は身体を握られながら、闇の中に現れた色とりどりの光を見ていた。銀竜の翼が羽ばたくたび、氷の粒子が宙を舞い、銀色に輝く。ぼんやりと開いていた瞳に氷の粒が入り、思わず目をつむった。
「今は、それでいい」
銀竜の声に、再び少年は目を開けた。
その瞳は、未だ
「……ア」
少年の口が、かすかに動いた。
銀竜は飛び回るのを止め、少年を握ったまま羽ばたいている。ふたりの周りをヴェールのように、鮮やかな光が包み込む。
「……ア……メ……」
表情はないが、なにかを伝えようとしている。ささやくように小さくかすれた声を拾い、銀竜は瞳を細めた。
「あぁ、あの
言った瞬間、銀竜の翼が羽ばたきを止める。夜でも白い明るさを放つ雪の地面へと、真っ逆さまに落ちていく。
「契約は済ませた。前にも、似たのが来たからな。そこがお前さんの、帰るおうちだ」
身体を握っていた手が、不意に
支えをなくした少年は、そのまま下へと落ちていく。雪山のふもと。丸太を組み合わせてできた人の家が一軒だけあり、雪の厚く積もった屋根へと、少年の身体は突っ込んでいった。
「あんな高いところから落として……。大丈夫かしら?」
家が望める崖の上から、雪女が口もとに袖を当てながら心配げに声を漏らす。そばには、フェンリルとビッグフットもいっしょだ。
青年の姿となった銀竜が、雪女の隣にふわりと降り立つ。
さきほどまで真っ暗だった家の窓から、明かりが零れた。
「人でなしの作った飴を食べたから、いけるさ。でなければ、ヒラヒラの中も飛べないだろう」
言った瞬間、身体がふらつく。
倒れそうになる銀竜を、雪女はとっさに抱えた。
「息苦しかったー……」
「オーロラなんて、間近で見ようとするからよ」
『酸素呼吸しているくせに、そんな場所まで行ったのか?』
「頭、痛い……」
「酸欠の症状ね。少し休めば治るわ。ビッグフット、持ってあげて?」
「ウホ!」
「潰さないでくれよ……?」
伸びた身体は、ビッグフットの肩に担がれる。
「さっ、私たちも帰るわよ」
『飲み直しだな』
「ウッホホー!」
「モフモフ、揺らさ……気持ち悪……うぅー……」
家を背にして、笑い声を響かせながら歩いていく。
先に見える景色は、どこまでも真っ白で、
* * *
極上の柔らかさと絶妙な冷たさに包まれ、銀竜は目を覚ました。
氷に覆われた洞窟の中。寝起きのまどろみのまま、無意識に手で自分の乗っている体毛を撫でる。シルクのように滑らかな触り心地で、毛はひんやりとしつつ体表へ行くほど生き物の体温が感じられる温もり。ずっと埋もれていたい魅惑に、顔を吸い付かせる。
「知ってるわよー、フェンリル、人に化けられてイケメンなんでしょー?」
『や、やめろ……。顔が濃いだの昔の肖像画だのと
声が聞こえ、首を持ち上げ、下を見る。
すぐ下に
机の上には、空になったつまみの皿と、大量の酒瓶。
『片手で持ってきた包みの中に、どうやって収まっているんだ……?』
「教えてあげないわよー、イケメンにならないとー?」
銀竜は軽く鼻で笑い、両手をついて上半身を起こした。横にビッグフットの顔があり、こちらも大口を開けて寝息を立てている。
体毛を滑るように降りて、氷の床に座る。頭の痛みはもう感じない。目の前に、一本だけ中身の入ったボトルが置かれていた。
ボトルと横にある氷のグラスを手に取る。身体をうしろに倒すと、ちょうどビッグフットの脇腹が背もたれになった。グラスに注いだ酒は、気泡の弾ける音を鳴らしながら、口の中へ。
「不味だなぁ」
静かで賑やかな空間に、笑みがひとつ。
洞窟の外は、再び荒れ狂う吹雪となっていた。許された者しか立ち入れない白銀の世界で、どこからか呑気な鼻歌が聞こえていた。
〈おしまい〉
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