第4話 かつてあじわったことのない深甚な閉塞感が久彦をとらえた。
すでに何もかもが終わりを迎えているような気がするときがある。それは何をやってもうまくいかないときや、ちょっとしたことでイラっとくる毎日がずっと続いているような日々のただなかに、本当にただの気まぐれみたいに舞い降りてくる。
何もかもが終わりを迎えているように思える
これはひどく極端な、ある種の想像が百倍にも膨らんだ妄想の類なのかもしれないけれど、それはとてつもない将来に対する閉塞感をもたらしてしまう。無気力とともにある閉塞感とでもいうのだろうか。そしてそれは質が悪いことに、かなりの曖昧さを含んでいる。とてつもなく胸が締め付けられてしまうのに、具体的な対象が何もはっきりとは浮かび上がってこないのだ。
まるでニュートンの運動方程式がなぜその形をしているのか誰も説明ができないように。なぜそれが成り立つのか誰も具体的な話はできないように。哲学的な存在という概念について、何も分からないことのほうが多いように。
……
……
……
そのぼんやりとした不安がもつ恐ろしい思考の引力とでもいうのだろうか。それに人はしばしば、かなりの影響を受けてしまう生き物であるのかもしれない。
そして、それは久彦にしても例外ではなかった。
……
……
……
夜。
久彦の存在はすでに悲しみのようなものに果てしなく呑み込まれていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
時は少しだけさかのぼる。
……
……
……
夕暮れ時がさらに深まり、少しの明るみも無くなってしまった。
久彦は緑に向かって『僕はどうすればまた気持ちよく、緑と一緒にいることができる?』とアイロニーを多分に含めた声色で言うまえから、すでに緑とは距離を置くべきだということを決意していた。
それは久彦にとっては、あまりにも当然のことだった。なぜなら彼女に浮気をされた事実のほかに、さらに残酷である、親友に彼女を寝取られていたという裏切りが発覚したからだ。
それはとても残虐なことだった。そしてそれは主観的事実を通り越して、多くの人々が納得するほどの客観的事実にまで上り詰めるくらいの、残酷性だった。
比較級における、より大きな残酷性だった。
「いや、いいんだ、答えなくて。そんなことは答えるまでもないことだからね。そもそも前提としてこれに答えなんてあるはずがないんだからね」と久彦は言って緑を突き放した。しばらくは緑のことを視界にすら入れたくないと思うほどの嫌悪感を抱いていた。
それは久彦にとって初めてのことだった。もちろん、今までに何回も緑とは喧嘩をしたし、数日のあいだ口をきかなかったことなんて、すでに数えることができないほどだ。
しかし、そのときには嫌悪感なんてもの、少しもなかった。愛する人であった緑に対して嫌悪感を抱くことなんて、少しもこれっぽちもなかったのだ。
……
……
……
(どうして浮気なんてしたんだ?)
久彦は緑と向き合うことで、そのような原因を知りたい欲、嫌悪感、怒り、性的劣等感などの複雑な感情の集合体となった……
醜い自分をどうしても認識してしまう。
そして少しでも気を抜いてしまうと、一気にその感情の濁流が、思ってもみない卑劣な行動に結びついてしまうような気がしてならないのだ。
たとえば、それこそ緑を血まみれになるまで殴ってしまいそうになる、とか。
緑を丸裸にして、神社の境内にある大きなクスノキに荷造り用のポリプロピレン製ロープでぐるぐる巻きにして縛り付けてしまう、だとか。
緑を拝殿の縁側に仰向けに寝かして、そのぽっかりと空いた口のなかに、固く完璧に勃起したものを突っ込んでしまう、だとか。
もうそれは、ありとあらゆる残虐性を詰め込んだような行為を緑に対してしてしまいそうになるような気がするんだ。
そして、それをもし仮にやってしまったとして。
凄まじい自己嫌悪に見舞われながら、それでも必死の形相で『緑がなんでもいうことを聞くっていったんじゃないか!』というふうな自己弁護をする光景が久彦には目に浮かんで……
……
……
……
(そんなことになるまえに、緑とは距離を置きたい。今すぐにでも。そして今後しばらくのあいだも……。もし仮に話し合う機会がまだあるのだとすれば、僕自身の側にその余裕と気持ちが、まだそのときにあるのであれば……。そのときはそのときで緑と何かしらの決断をしよう。)
久彦はかなり冷静になって、そのようなことを考えた。これはあまりにも冷静すぎる思考だった。そしてそれは久彦にとって、あまりにもベストな選択であるように思えた。
そのときは、まだ。
ベストであるように思えていた。
……
……
……
しばらくして、二人はひぐらしの声に包まれながら、それぞれ独立した帰路についた。
緑のすすり泣く声が後ろから聞こえていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
何事においても保留をするということは、程度の差こそあれ、問題を棚上げにしているという精神的なダメージが常日頃どうしても生じてしまう。この精神的問題はとてもやっかいで、それは抽象的で答えが出にくい、それとも答えを出したくないものに関して、よりいっそうの効力を持ち得てしまうものであったりする。
要するに久彦はそのあまりにも冷静すぎる頭で感情的で本能的な残虐性を抑え込んで、最善の選択をした。しかしながら、その最善を決める尺度がどこに置かれているのか、それを久彦は少しも考えることすらしなかったのである。
なるべく多くの可能性を残しておくこと。そしてその可能性のなかから、今後の時間軸において、その都度そのときの最善を選択すること。すなわち、久彦はそのようなイバラの道を歩み始めようとしているようなのであった。
可能性を潰さず、なるべくその多くを確保し、自らにとっての利益になるような選択をしつつ人生を構築していくこと。
そこには感情的になって今までに積み上げてきたものをすぐに手放してしまうという軽率な行動を少しも容認しない、久彦の精神的な態度が含まれていた。
……
……
……
久彦にはかなりの完璧主義の気があった。それもかなり重度の。彼女を寝取られても、その感情にずっと流されることなく、冷静に判断を下すこと。自らの最善に従って緑との関係を、そして紫との関係も見直すこと。
どれほどの絶望に襲われようとも……。投げ出すこと、考えることから逃げ出すことはしない。
……
……
……
それは久彦の優れた部分でもあり、そしてまた何よりも愚かな性質でもある。
これはおそらく正しいことなのだ。
おそらくは、だが。
……
……
……
久彦は夜遅くに自宅に帰った。まっすぐそのまま神社からは帰れずに、自宅近くの公園のベンチに、ただ茫然と座り込んでいたりした。
……そして、やっとのことで自室に入ると。
久彦を本格的な悲しみが襲った。
それはとても深く、底のしれない、果てしのない悲しみだった。悲しみの根源にあるような感情が久彦をとらえた。
そして、久彦は何も考えられなくなる。根源的なところで思考が停止したような感覚。
その後かなりの時間をかけて、夜の波打ち際のように暗く深淵な眠りが久彦を襲った。
かつてないほどの悲しみが、久彦をとらえていた。
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