第5話 PERFECT BLUE
あれから数えて一週間ほどのあいだ。
時間はのっぺりと重くのしかかるように久彦を包み込んでいる。まるで世の中の事象が平べったく総じて均質化されていく画面の中の出来事のように。
心ここにあらずで日々を過ごしていくためか、次第に現実も幻想も虚構も幻影も全てが一つに合わさったかのような心持ちが久彦を襲い始める。しかしそれはそれで本来の世の中であるのかもしれないという気がしてくる。
これがデフォルトなのだ。
デファクト・スタンダード
ありのままの世界
思い返してみると、今までは淡々と楽しいことだけが過ぎ去っていく日々だった。その一元的な側面から久彦は世の中を見つめていた。
純粋で高潔な高校生の青春を謳歌したい、謳歌することだけ考えていればいい。それが久彦と緑と紫の願ってやまない、しかし表立っては誰も口にすることのない欲望だった。それは確かなことだと思う。それは真実であると思う。
……
……
……
久彦にとって、今では世界は極めて複雑に映るようになった。世の中は様々な側面を内包し、果てしのない相互作用の循環を永遠と繰り返しているように見える。文字通り永遠に。繰り返し繰り返し、果てしのない反復がそこにはあるように思う。
そしてそのなかに、ぽつりと意識が存在し始めた。永遠と複雑性の反復のなかに意識が立場を獲得しえたのだ。
それが全ての始まりだった。それがあらゆる事象の始まりとなった。全てのことに意味が発生するようになった。
……
……
……
久彦はそのレベルで自身の感情を相対化し始めた。いま置かれている自分の境遇を、かつてないほどの時間軸(過去にも未来にも広がりをもつ時間軸)の
しかしそこには虚無しかなかった。実際的に意味のあるものは何も得られなかった。果てしのない暗闇が無常に広がっているだけだった。
優しく寄り添ってくれるものは久彦に何もなかった。自らの頭で考えることは何も何も久彦を助けてはくれなかった。
考えているだけでは、少しも大切なことにたどり着いてはくれないような、そんな気さえしてくる。
……
……
……
あれから数えて一週間ほどが経過しようとしている。
そのあいだ。久彦は緑と紫と少しも目を合わせなかった。話すらしなかった。メッセージも電話も、あらゆる向こうからのアプロ―チもことごとく無視し続けた。
こころが彼らを受け付けなかった。緑を、紫をまったくといっていいほど受け付けなかったのだ。
緑の浮気に対しての怒りや悲しみ、切なさや淋しさ。それらは久彦の思考の節々に絶え間なく張り付くように、そして唐突によみがえってくる。あのときの感情を幾分か減衰させた二次的な感情が文字通りよみがえってくる。そしてそれは久彦のこころをかき乱すにはあまりにも十分すぎるほどだった。
紫の裏切りに対する絶望と失望。それは久彦の存在を覆い隠すように連続的な絶望をもたらす。文字通り連続的な絶望。それは久彦にとって最大級の孤独を与えている。存在としての本質的な孤独にまで昇華してしまうほどの、それほどの影響力を持ち得ていた。
……
……
……
はっきりいって、久彦は最善の選択をしているようには思えなかった。自分自身でも。はっきりとその自らの惨めさを自覚していた。
あのとき、しっかりとその場で全てを決めてしまったほうが楽だったのではないか。最善の選択をするとは一体全体どのように定義することができるのか。
それは未来の見えない世界を生きる『僕たち』にとって、ただの結果論でしかないのではないか。
最善の選択という言葉は『満たされない全てのモノたち』が希求している幻のような理想、幻影ではないのか。
……
……
……
久彦は学校に丸一日行かない日を作ることもあった。途中で影のように静かにひっそりとその存在を学校から消すこともあった。
そして久彦は詮無い思考から逃れるために読書や散歩、美しい景色を見ることに耽った。それはあまりにも自明な久彦のたどり着いた逃避先であった。もし仮に最善の選択というものがあるのだとすれば、今はまだ、それはおそらくは、久彦にとっての最善なのだろう。最善だと思い込みたい欲望なのだろう。
久彦はたくさんの読書をした。学校なんてそっちのけであらゆることからの逃避としての読書をした。しかしそこに何かしらの希望を求めて。ゆっくりとじっくりと、牛歩のように泥沼を進むがごとく……
ロジェ・カイヨワ『石が書く』
阿部共実『潮が舞い子が舞い』
サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』
大江健三郎『同時代ゲーム』
大友克洋『童夢』
小林秀雄『近代絵画』
浅野いにお『うみべの女の子』
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』
本はただそこにあった。そこだけにあった。変わらずにあった。
久彦は川辺でせせらぎを聞きながら、海辺で潮風の生ぬるい風を浴びながら、少し開けた山の上の展望台で涼しげな清風を受けながら、それらを読んだ。そのときに久彦は実際に太陽がぐるっと、その半球を動いていくことをリアルに実感した。とてもリアルに、長々と実感していた。
そしていま、久彦は海に来ていた。実際にあれからどれほどの時間が経っているのか、もう久彦は確認することを無意識的にやめていた。そのときがくれば体は自然と動き出すはずだという確信のようなものが体を満たし始めていた。
真っ青な空と真っ青な海。透明度の高い波が砂地の浜辺へと打ち寄せ、その際で海水が砂色に濁る。
久彦は片手に阿部公房の『砂の女』を持ちながら、遠方を見ていた。
ずっと遠く。空と海の境界がぼんやりとして、どちらともいえない領域がある、その先のずっとずっと向こう側。
「僕は僕の極めて個人的な問題でこれほどまでに個人的に悩んでいる。ただそれだけ。ただそれだけなんだ……。それにしても自然はどうしてこうも、だだっ広いんだろう」
完璧な青が、今までとは異なる意味合いで久彦の目の前に広がり、そして久彦の存在に優しく溶け込んでいる。
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