第3話 ひぐらしのなく頃に

 クマゼミの鳴き声が次第に薄くなっていく。そして次第にうら淋しさと少しの不気味さが伴う、この神社周辺の鬱蒼とした森のなかに潜むひぐらしの鳴き声が支配的になっていく。



『カナカナカナカナ……』



 久彦はそのような頃合いに、ゆっくりとした覚醒をした。まるでアスファルトの上で派手に転んで擦りむいた膝小僧から、すぐには血が溢れ出してこないように。


 ゆっくりと、じわじわと、その意識をひぐらしのなく頃に取り戻した。



『カナカナカナカナ……』


 

 久彦はすっかり雰囲気の変わってしまった神社周辺の情景を、横になりながら確認する。そこにはまるで、別世界のような気がしてしまうほどに、自然の濃密な香りと音が漂っている。


 腐葉土のむせ返るほどの生々しい香り。よく見ると大きなミミズのような物体がくねくねとその生命を躍らせている。


『ジジッ!!!!』


 時折聞こえてくる断末魔のようなセミの鳴き声。おそらくは天敵に捕食されたのだろう。


 横になって眺める情景の奥、下りの石段のその先に佇む、外界との接続をはたしているかのような鳥居。その先に見える街路灯のぼんやりとした灯り。田んぼへ用水路から引いた農業用水を注ぐ激しい音がここまではっきりと聞こえてくる。



「僕はいま何をしているんだ」



 久彦は目覚めてから初めての声を発した。朝の寝起きのように判然としない、かすれた声だった。



「あ、気が付いた?」



 久彦の横になった耳の、真上のほうから女性の柔らかな優しい温もりのある声が聞こえてきた。それは間違いなく緑の声だった。


 そして、そのことを認識した久彦は今時分に、膝枕をされている構造をはっきりと自覚した。



「緑……。あれ、どうして」



 久彦はそういって、緑と自分のいまの状況の説明を促そうとしたが……


 そうするまえに、全てを理解した。



「…………」



 緑の温かな太ももの、弾力のある生々しい性的な感触を耳から感じたことで、ついさっきまでの出来事が、これまたゆっくりと、しかし鮮明に、克明に。脳裏によみがえってきた。



 


 熱くお互いの存在を結合させたことによる汗とその他諸々の濃密な液体が、そこから飛び散って、張り付いて、そしてゆっくりと滑り落ちたり弾けとんだりしていた、緑の真っ白な太もも

 

 久彦はその上に、まるで幼稚園や保育園に通う小さな男の子であるかのような甘え方で、しっかりとくつろいでいる。いや、くつろがされている。



「……思い出した?」



 緑がその無駄に美しい顔をして、久彦の横になった顔を屈みこんで、覗く。その顔には多分の申し訳なさが含まれている。そしてそこに久彦は、極めて複雑に意味付けされた対象を見出していた。


 その端正で整った容姿をした緑の、小さくて薄い色鮮やかな……


 


 さっきから、久彦の頭のなかでは、そのままの純粋な網膜上の映像だけが存在することはなく、そこに二次的で、性的、屈辱的な、いかにも人間的であるが行われていた。


 


 


 


 すでに、久彦の目に映る緑は、今までの緑ではなくなっていた。久彦にとっては全くの異なる女性として、どこか大人になってしまった女性として……


 その甘美な官能をさらに濃密に漂わせている。


 そしてまた、到底許すことのできない対象として、久彦は緑のことを認識するようになった。


 だんだんと、あのときの感情が蘇ってきていることを、久彦はもちろん、緑もまた感じとっている。



「紫は?」



 久彦はむちっとした緑の太ももからの感触を感じながら、拝殿の縁側に腰を掛け直した。そして少しだけ緑とは離れたところへと、腰をスライドさせた。


 緑の悲しそうな声が、静かに漏れた。すでに緑はその真っ白な裸体を服にしまいこんでいる。



「む、紫は……。用事があるとか言って」

「あいつは僕よりもその用事のほうが大事だというのか」

「あっ……。でも紫はそんなやつじゃないっていうか。そういうことは久彦もよく知ってると……」

「こういう状況のときに、あいつは逃げ出すやつってことがわかった。これはおそらく初めての状況であって、今までには到底知ることのできなかった紫の深部に潜む性格だ。そしてこうして分かったことは、どこまでも深くあいつの精神性を決定づける。あいつの根っこには、が潜んでいるということが……」



 久彦はそこまで言って、涙があふれてくるのを感じた。信頼していた親友に裏切られたという事実が、ひぐらしのうら淋しい鳴き声のせいもあってか、心を切なさのちくりとする鋭さで抉り、急に感情的なやるせなさがこみ上げてきて、それがもうちっとも抑制できなくなってしまったのだ。



「久彦……。本当にごめんなさい。紫を悪くいうことは、私たちにとっても、そしてなによりあなたにとっても、とても苦しいことなのよね。苦しすぎることなのよね」


 

 久彦は『今のお前が言うなよ』と言い返してやりたい気持ちになったが、それをぐっと堪えた。今はあらゆる怒りよりも、緑が浮気をしていたことよりも、ということよりも……


 


 そのことが、激しく久彦の心を抉っていた。もう二度と立ち直れないほどに、深く、奥深くまで久彦の存在を揺さぶった。


 まだ、見知らぬ男であったほうが久彦の気持ちも、楽であっただろう。


 久彦にとって、親友とはそのような存在だった。唯一無二の関係であり、一生という時間のなかで、自身の存在にとって無くてはならない存在だったのだ。


 そしてそれは、久彦の青春にとって、緑の青春にとっても、3人の青春にとっても、なくてはならない概念だったのだ。


 


 すでにそれは実体を失った、影のような不鮮明な概念に成り果てた。その幻想のように美しい、極めて人間的な大切さを含んでいるものを失ったからには、それはもう二度と手に入りはしない。


 久彦はそのようなことを思った。

 

 


 久彦を新たな絶望が襲った。それは今までにない深淵な絶望だった。上にも下にも右にも左にも同質の深淵さが均等に広がり、久彦の存在を漆黒で埋め尽くしてしまうような、絶望。



「なんでも言うことを聞くわ、久彦。私はごめんなさいしか言うことができないと思うの。そして私から進んで何かしてあげたいという気持ちは決まってあなたを取り乱してしまうことになると思うわ、久彦。私たちは本当に愚かなことをしてしまったのよ。これは本当に許されるべきことではないのよ、私たち3人の間において。決してあってはならないことだったのよ、久彦……」



 緑はしゃべればしゃべるほどに、その少しも残されていない道なき道を正確に踏み外していき、失言を重ねているようにみえた。そしてそれを緑も正確に、そして無常に感じとっているようだった。いかにも、魔が差したあとの人間といったように。その雰囲気のなかで、ひぐらしのなく頃に、必死な顔をしていた。



「緑……」



 久彦は緑と向き合った。



『カナカナカナカナ……』



 ひぐらしのせつなさが、より一層の意味をもって久彦と緑を包み込んだ。



「僕はどうすればまた気持ちよく、緑と一緒にいることができる?」



 疑問形。


 今の僕たちにとって、あまりにも残酷な、答えなんて永遠にやってこないのではないかというような言葉が辺りに響いた。


 そしてそれは緑のどもった声と、ひぐらしの鳴き声により、一瞬で無意味な振動と化した。



『カナカナカナカナ……』

『ジジッ!!!!』



 闇がだんだんと静かに深まっていく。

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