6-8

 ドクンと内臓を震わせるような振動が伝っていって、地上に突き出した全ての触腕は砂が風に吹かれるように崩れ去ってゆく。

 変化はそれだけでは終わらない。

 まるで現実のテクスチャを塗り替えてゆくかのように。

 沼の中心から、ぬかるんだ地面は、清らかな湖の水面へと上書きされてゆく。


「なんだ……、これは?」


 自分の足が、何の前書きもなく水面を踏み締めているのを見て、困惑しつつ周囲の安全を確認する白楊。

 今や汚れた沼は姿を消し、清廉かつ静謐な湖が広がっている。湖畔には青色の花弁を付けた小さな花が一面に咲き誇っていて、幻想の絨毯のようだと思った。

 これまでのおどろおどろしい雰囲気は、もうない。穏やかで清浄な空気は聖域の味がした。

 スカイブルーの草原の中には、種も大きさも違う生物や、錆び付いたガラクタが無秩序に乱立していて。意味の分からない現代アートのような様相を呈している。遠く聳える山の向こうには、春の霞に埋もれるようにして山よりも巨大な牛の脚が立っていて、はなだ色に滲む空を穿って薄雲の向こうに消えていた。


「上手くいきましたか、お兄さん……っ」


 アッシュは立ち上がろうとして、立ちくらみがしたのかふらりと倒れ込む。

 それを素早く抱き止め、白楊はアッシュの背中を叩いた。


「多分な。でかしたぞ、チビ」

「ふふん! それほどでもありませんが。あとチビじゃないです」


 遠くで待機していたローズ教授とベルタが恐る恐るといった様子で水面を渡ってきて、白楊たちに合流する。


「驚いたわ。これは現実改変の一種ね。噂には聞いてたけど、私も自分の目で見るのは初めてよ」

「ふふん! すごいでしょう。あの怪異さんの内側に響いてる声の中から、ベルタさんのおじいさんのモノだけを増幅させてみたんです!」

「ということは、もしかしてあの男がそうなのかい?」


 ベルタの視線の先を追うと、水面の少し離れた場所には男が一人立っていることに気付く。

 一瞬身構えたものの、彼は無言で見詰めてくるだけで敵意は感じられない。

 それがベルタの祖父であることは、確かめずとも分かった。

 だって、微笑んだ時に優しくなるベルタの目元が、そっくりだったから。

 ベルタは男の下に駆け寄って、すぅと息を吸い。呼びかける。


「アンタが最後に渡した花、婆さんはずっと大切にしてたよ」


 すると男は曖昧な微笑みを浮かべた。

 嬉しいような、でもちょっと困ったような。そこはかとなく安らかな色をした波が、零れだす。

 そして口を閉ざしたまま、目を瞑って。頷いた。


「お兄さん、いけそうですか?」


 その言葉だけで、白楊は言わんとすることを理解したらしい。「ああ。任せておけ」と言って懐からあの銃を取り出すと、ベルタと男の横に割り込んだ。


「感動のシーンの所悪いが、そろそろお迎えの時間だぜ。――アンタ。なんか、最後に言い残すことはあるか」


 すると男は何かを考えるように顎を擦り、アッシュの方へ歩み寄る。そしてアッシュの手を掴むと、何か軽いものを丁寧に手に包んでやる。開いてみれば、それは白灰色の石のような物体だった。

 そしてポンとアッシュの頭に手を乗せてから、白楊に目配せをする。


 ――ダンと、破裂音がして。

 呆気ないほど簡単に青年は後ろに倒れた。


 痛々しい程に美しい死の閃光と、鼻を突き刺す硝煙の匂い。

 それと同時に湖の景色は崩れて、元の沼に戻ってゆく。

 砂浜に砕ける白波のように散った、花吹雪の幻想だけを残して。

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