6-7
さん、に、いちの合図で。
今度は白楊と共に、私は飛び出す。
クラウチングスタートの正しい体勢とか知らないので。前を往く死神の背を追って、ただがむしゃらに土を蹴った。
踵が跳ね上げた泥はお気に入りのスカートの裾を汚してゆく。
ぬかるんだ地面が踏み出そうとする足を掴んで、何度も転げそうになる。
足場の悪い沼を全力疾走するのは、想像していたよりもずっと体力を削られる作業で。
息が切れる。
足が痛む。
肉体の全てが、もう止めてしまえと悲鳴を上げる。
町の一つを破壊する程の力があっても、肉体はただの少女に過ぎないし。
牢屋に入る前に負った傷だってまだ全然治った訳じゃなかった。
それでもただ一つ心だけは、諦めてなるものかと叫び続けていた。
道を塞ぐように現れた脚達は、瞬きの内に白楊が片付けていった。反りのある細身の剣を、まるで肉体の一部のように操って、大波の如くうねる脚と触腕の群れを切り開いてゆく。魔術すら使わず己の身一つで突っ込むなんて自殺行為としか思えないが、きっと彼は死すら恐れていない。
先程襲われた時にはしっかりと観察できなかったが、改めて見ると美しさすら覚える程の、凄まじい剣技だ。
あるものは切り刻まれ、あるものは吹き飛び、あるものは互いに縺れ合って身動きが取れなくなるなど、いっそ芸術的な技量で脅威は片付けられてゆく。派手に振り回される剣の舞は、我武者羅に見えて非常に繊細だ。攻撃だけでなく、吹き飛んだ肉の破片の一つすらアッシュに当たらないよう、綿密な計算の上で成り立っているのだと、今は分かる。
――ただ一人。彼だけが赤黒い返り血を浴びて、まるで修羅のように戦場を舞っていた。
その気迫に、流石の怪異もたじろいだらしい。あと一歩というところまで迫ったところで、怪物は撤退の素振りを見せる。
しかし、その隙を見逃す白楊ではない。
「木枯、ツノを打て――ッ‼」
呼び声に答えるように、怪物の足元の地面が盛り上がったかと思うと、沼に引きずり込まれたはずの木枯が地中から飛び出して鎌を一閃した。
下半身を刈り取られた怪物は、成す術も無くその場に崩れ落ちた。酸で爛れたみたいに、境目も分からない位グズグズに膿んだ肉の結合部が露になって。独特の光沢がある黒く脂ぎった血液が、滝のように沼へなだれ込む。
再生が始まるその前に、木枯は怪物の顔の前まで飛び上がると、空中で体を反転させながら鎌を横薙ぎに振るう。青い魔力の稲妻が迸って、硬質化した怪物の左角は、純粋な暴力によって砕かれた。
――ここに、怪物は遂に
「とどけぇ――‼」
もんどり打つ足元を何とか制御しながら、怪物の額に触れた瞬間、掌を通じて様々な声が脳内に響き渡ってくる。
恐怖。苦痛。焦燥。安息。歓喜。
それは名前も付けられないような感情の機微で溢れる海の中で、たった一滴の真水を探すような作業だ。
それでもアッシュに諦めるという選択肢はなく、ただ愚直に形而上の海を潜水し続ける。
彼女の本能は微弱な信号を確かに感受して、一つの方向を指し示し続けていた。
こうして〝490246〟の本体と共鳴して初めて理解できたこともある。
アッシュたちは〝490246〟という存在を、汚染された湖の精霊に、誘拐されたベルタの祖父の思念が乗った存在であると考えていた。
しかし、実際にはそれはもっと巨大な思念の集合体だ。
一や百どころではない。
無数の生物の意識が混淆してできた、無限のカオス。
それはきっと、土砂崩れで死んでいった全ての人間たち――そしてそれよりもずっと前、この世界の出来た原初の頃からこの沼で死んでいった生物たちのものなのだろう。
その中で、ひと際輝く一番星のような命の輝きが、確かにそこにある。
「見つけた――!」
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