6-5

「木枯ちゃん……っ⁉」


 思わず飛び出しかけた所で、目の前に通せんぼしてきた白楊の腕に突っ込んで止められる。


「心配すんな。あの程度で死ぬくらいなら、とっくの昔に俺が殺してる。それより、こいつはやられたな……」


 白楊は地殻変動の如く急激に流動する沼の水面を見据える。

 ローズ教授も今までにない程の緊張を滲ませながら、声を張り上げた。


「見誤ってたわ。私たちは〝490246〟とはあの怪物のことを指すのだと思っていた。でも、本当は。――この沼全体が、〝490246〟という怪異だったのね……!」


 一度は致命傷を負ったかに思われた怪物は、今や高速で再生を始めていた。

 ――聖遺物は全力で宿主を生かそうとする。たしか教授がそう説明してくれていたが、まさかここまでの超再生が可能だとは思わなかった。こんなの、まさしく不死身も同然である。

 既に傷の半分は塞ぎ終わっていて、いつ再起動してもおかしくない危険な状況だ。

 いや、そもそも。あの獣の怪物をどれだけ傷付けた所で、沼が本体ならば全く意味がないのだろう。

 そしてこの巨大な沼を丸ごと破壊するというのは、地殻変動でも起こさない限り達成できないし。

 そんなの普通に考えて、無理だ。


「こりゃもう手に負えないぜ。どうするセンセー」


 白楊は懐から例の銃を取り出し、獣の怪異に向ける。


「……プランBよ。これより当エニグマの解体を開始するわ」

「待って下さい! ――まだ、やれることはないんですか」

「諦めが悪いのは良いことだけれど、状況を見誤ってはいけないわ。アレは想像していたより遥かに危険な代物だった。ここが潮時よ」


 アッシュは強く唇を噛む。

 そうだろう。教授は何も間違ったことは言っていない。

 アレは怪異で。その存在は本質的に人間にとって害悪だ。

 しかもそれを治めるとして、手段を選んでいられる段階は既に過ぎていた。


 ――それでも、聞こえる〝声〟がある。


 〝声〟とは形容したが、それは記号性に乏しく極めて原始的な、感情の波の表出のようなモノだった。

 人間に限らず。生きるモノであれば誰もが持つべき、生命の脈動。水面に色水をたらした後の波紋のようなそれが、五感を超えた領域を通して脳へと流れ込んでくるのを想像して欲しい。

 人がモノを見て、音を聴くように。アッシュはそれを常に知覚していた。実際の所、ベルタが心の内に迷いを抱えているのを知ったのも、この能力によるものだった。

 それはテレパシーとか、読心術みたいな大層な超能力ではなくて。

 世界には音楽に色がついて見える人が居るのと同じように、日常に少し色彩を足す程度の力でしかなかったけれど。

 確かに一人の少女の価値観の天秤を歪めていた。

 そして今、異形の怪物を前にしてアッシュの耳に聞こえたのは。

 怒りでも、恨みでも無くて。


 ――――心配。だった。


 それはきっと自分にしか聞こえない。

 自分にしか分からない。

 自分にしか、できない。


「ぐぅ…………っ‼」


 視界の隅に、ベルタが何か行動を起こすために上げかけた右手が、途中でピタと止まるのを見つける。

 曖昧に開かれた掌は空を掴んで、そのまま胸元へと引き寄せられた。

 それで、もう我慢ができなかった。

 アッシュは白楊の腕をすり抜けて、一人沼の中へと駆けだす。


「ちょっ⁉ 待ちなさい!」


 後ろから教授の呼び止める声が聞こえてくるけれど、もう足を止めることはできなかった。

 森と沼の境界に立ち尽くすベルタの背を追い抜いて、アッシュは泥濘に足を踏み入れる。

 するとたちまち、行く手を塞ぐように巨大な甲殻類の腕が沼の表面を突き破って飛び出した。


「どいて――っ‼」


 自分の肉体より遥かに大きなハサミに向かって疾走する、アッシュの身体が淡く発光した。無造作に放った拳から極太の光線が発射される。光線は容赦なく触腕に風穴をあけ、断面を真っ黒な消し炭に変えた。

 しかし、何ともなかったかのように、新たな触腕が現れてハサミを鳴らす。それはまるで犠牲者を見定める肉食獣のような、捕食者めいた挙動だ。

 一方でアッシュの額には既に汗が浮いていた。身体を覆う光は明るさを弱めて、拳を握っても、込み上げてくるのは倦怠感だけだ。

 呼吸を整える暇もなく、突っ込んできた触腕にアッシュは為す術もなく立ち竦んだ。

 突然の戦闘に驚いたのだろう。

 森の小鳥たちが一斉に飛び立って、空を横切っている。

 それを茫然と仰ぎながら。どこから見上げても、空は、青いのだなと思った。

 異形の怪物が向けてくる殺意の塊に圧し潰されそうになって、本能的に歯を噛み締めて、強く拳を握り――

 しかし、不意に脳の奥にひらめきがあって。一度は握った拳を再び開く。

 そして今度は愛しさの塊に触れるように、その手を伸ばした。

 すると、指先に僅かな。しかしいっとう眩しく、清らかな光が灯るのが見えた。

 これでいい。きっと最初から、こうすれば良かったのだ。

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