6. 沼と死神
6-1
それから。
一通りの作戦会議を終え、各々が休憩モードに入ったところで馬車が急停止する。
「おわっ⁉」と、アッシュは慣性によって向かいの席へ吹き飛びかけたが、白楊が隣から腕を出して支えてくれたおかげで事なきを得た。
御者台では執事が半狂乱になる馬を何とか宥めすかしているが、どうにも収まらないらしい。数回鞭を振るって、やれやれとばかりに頭を振りながら、客車へ振り返る。
「馬が恐れています。これ以上は馬車で進むのは不可能です」
「むしろここまで良く耐えてくれたと言うべきね。目的地は遠くないわ。ここからは歩きで行きましょう」
「爺はどうするんだい?」
「待機いたしましょう。お嬢様が用事を済まされた後に、帰りの馬がなければお困りになるでしょうから。本当のことを言えば、私もお嬢様の傍でお守りしたいのですが……、この老体では邪魔になるばかりでしょう」
渋く嗄れた声は努めて落ち着き払っている。しかし眼差しは鋭く、ローズを試すようにその眼光で刺しながら「もし、お嬢様の身に何かあったならば、栄光あるウィスト家の方と言えど容赦は致しませんので、そのつもりで」と最後に付け足した。
太陽はかなり傾いているとはいえ、目の前に広がる森の中は異様に薄暗い。それは立ち並ぶトウヒの樹の群れが、細やかな葉で日光を削り取っているからだ。 暗闇の奥から吹き付ける冷ややかな風は、腐葉土をひっくり返したような匂いを含んでいて、妙に肌が騒めいた。
この森には何かがいる。
「――ったく。爺さんも過保護なもんだな」
馬車が見えなくなるところまで、森を歩き進めたところで白楊が呟いた。
「なんていう割には、白楊さんだってさっき私たちが怪異に襲われてた時には、何だかんだ助けてくれましたよね。ツンデレですか?」
「誰がツンデレだ。次は助けてやらねぇからな」
瞬速のデコピンを食らって、アゥと声が漏れる。
こんな非常事態に、何とも気の抜けたやり取りだろうと思ってしまう。
ちゃんと胸の内には危機感とか焦燥があって、それでもどこか気が抜けてしまうのは彼のせいだ。エニグマと向き合うのはこれが初めてのことではないけれど、冗談を言えるくらいに余裕がある自分に少し驚きすらする。
なんて考えていると、後ろから声がかかった。
「ちょっと……、二人とも! もう敵地なのだから……、あまりふざけるのはよして頂戴!」
最初は先頭を歩いていたはずの――、今は最後尾を伸ばしながらなんとか列に齧りついているローズ教授は、息も絶え絶えに声を上げた。
「おいおい。ふざけてるのはアンタの方だろ。まだ歩き始めてから一〇分くらいしか経ってないぜ。アイツと戦う前にぶっ倒れるんじゃねぇぞ」
「研究職は……、山登り何て……、しないのよ!」
輪郭の細い顎を伝った汗の珠を、高級そうな絹のハンカチで惜しげもなく拭い、教授は美貌に似合わぬ悪態を吐く。確かに量産品らしいデニム脚はすらりと細く、よく言えば嫋やかだけれど、確かに山道を歩くようにはできていない。それでも鈍く光る金糸の髪には乱れが無いのだから、ちょっとズルい。
「教授さん。頭は良いようだけれど少しは運動もしたらどうだい。見てるアタシの方が心配になっちまうよ。ほらアッシュを見習いな」
「私は地元がド田舎だったので歩きには慣れているのですが……、それを加味しても教授の持久力の無さはちょっと……」
「人には……、生まれた時から才能の差があるけれど……、代々ウチの家系は運動の才能を……、全部脳味噌に吸われてることで……、有名なの!」
必死な教授の自虐ネタに、朗らかな空気が一行の間に満ちて――
アッシュはふと鼻の先に、温泉卵のような独特な匂いを嗅いだ。
脳内の記憶をひっ掻き回して、その匂いの正体を突き止める。これはあれだ。
――沼の匂いだ。
白柳も空気の変化に気づいたらしい。ピタリと立ち止まると、顔を引き締めて森の奥を睨みつけた。
「静かに。――居るぜ」
にわかに開けた木々の隙間から、土留色にぬかるんだ広大な沼の景色が覗いた。
円形にぽっかりを空を切り取った空間の中心に、まるで太古の石像のようにそれは苔の張った巨体を沈めている。
まだ先の戦闘の傷は癒えていないようで。木枯の蹴りが抉り取った脇腹からは、止め処なくぬらぬらした体液が滴り落ちており、硬く絡まった体毛を金属質に染めている。
胴体の下部を埋め尽くすグロテスクな脚の群れは、よく見れば一つ一つ異なる生物の寄せ集めだ。偶蹄目の蹄があり、昆虫の肢があり、甲殻類の触腕があり、植物の蔓があり、何かの機械の鉄棒があり、人間の脚があった。
それは余りに無秩序で、グロテスクで、神々しい奇跡の造形だった。
「じゃあ、早速だけど。手筈通り頼むわよ」
アイコンタクトで了解を示して、ごくりと唾を呑む。
いざ本番となると、緊張で胃が痛くなってくる。一旦リハーサルを、と言いたい気持だったけれど、そんな暇が無いのは、分かってる。
最初に動いたのは、ベルタだった。
ベルタは隠れ場所の樹の裏から身体を出して、森と沼の境界の間で立ち止まる。
すると、怪物もベルタの姿を見つけて、歩み出す。
ただ立ち、動くだけで空気を圧倒するような存在感に、ベルタの脚が震えるのが見えた
「どうも、名も知らぬ怪物さんよ! 今日はアナタに伝えたいことがあってきたんだ。アンタの探してる婚約者――私の祖母は、つい先日亡くなったよ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます