2-7

「うそ。じゃあ、〝黒ずくめの大男が街を破壊して笑ってた〟って噂は間違いだったってこと……?」

「どんな尾鰭が付いて回ったんだよ……全く、人気者はつらいよなぁ……」


 およよと泣き真似をする白楊を無視して、そこで女性はアッシュを再発見したかのように、注意と関心をもってその相貌そうぼうを見る。


「うん……? 待って。もしかして貴女、ベルタさんが言ってた女の子でしょ」

「えっ? ベルタさんを知ってるんですか?」


 女性は質問に答えず、鉄格子の扉の錠に掌で触れる。すると僅かに青みを帯びた光が放たれて鍵が開いた。

 そしてつかつかとアッシュの下へと歩み寄って身を屈めると、急に鼻が触れあう位の距離まで顔を近づけてきて、顔を嘗め回すように眺めた。

 上品なシトラスの匂いが鼻先を掠めて、アッシュは思わず目を逸らす。


「ふぅん……? なるほどねぇ……、確かにこれは……」

「えっと……、私の顔に何かついてます……?」

「いや? こんなのは初めてだから、ちょっと不思議だなと思って」


 銀縁の丸眼鏡の向こうから覗く澄んだ瞳には、銀河を写し取ったみたいなインディゴブルーが浮かんでいる。

 まるで心の中の全てを読まれているのではないかと思ってしまう位の、美しい眼だ。


(顔キレー。てか、まつ毛なっがぁ……)


 息を呑んでしまいそうな美貌を前にアッシュは今にも羞恥で悶える寸前だったが、女性があくまでも真剣な面持ちなので何とか堪える。


「――私じゃ見えないわね。でもそれ位じゃないと意味ない……か」


 女性はぶつぶつと何かを呟いた後、最後に顔を傾けて眼鏡の下の隙間から裸眼を向けると――何かを覚悟したかのように、頷いた。


「うん。決めたわ。貴女、今から少し取引をしない?」

「取引……、ですか?」

「私が君の保釈金を払ってあげる。その代わり、貴女が戦った怪異を倒す手助けをしてくれない?」

「はい……、はい?」


 今、彼女はなんと言ったか。

 私が、あの怪異を――倒す?


「むりむりむりむりむりですって! さっきだって、私ボコボコにされましたし。白楊さんが居なければ死んでしましたし!」

「そうかしら。私も遠くから貴女の魔術を見ていたけれど、なかなかの魔力を持っているみたいじゃない」

「あれは暴発みたいなものですし……、結局ただ迷惑かけただけになっちゃいましたし……」


 己の提案にアッシュがなかなか靡かないのを見て、彼女は困ったような、何かを決意したような雰囲気で一瞬目を伏せた。


「それでも、貴女はこの陸の孤島における貴重な戦力なのよ。既に負傷者はそれなりの数出ている。力のある人間が動かなければ、もっと酷いことになる可能性があるわ」


 その言葉に、首筋に青く冷えた亡者の手が触れる錯覚を覚える。ぐらりと揺らぐ意識を、何とか押さえつけて、言葉を紡ぐ。


「でも。私には、犯した罪を。他人の街を滅茶苦茶にした罪を償う必要があります」


 知らず知らず突き放すように放った声色は、まるで自分のものじゃないみたいに機械的で。

 きっとその半分は嘘で、でも半分は本心で。そして両方が真実だった。

 だからこそ、心を締め付ける。

 しかし、アッシュの拒絶にも女性は全く怯む様子を見せずに、むしろ一歩踏み込んでくる。


「なら、なおさら私と一緒に来て、怪異の調伏に力を貸してほしい。幸い公安隊の避難誘導のお陰で、貴女が魔術で怪我をした人は居なかったみたいだし――、あとはお金の問題よね?」


 女性の有無を言わせぬ勢いの訴えに、本当に私にできることがあるのかという素直な感想が、胸の内から込み上げてきた事実にまず驚いて。

 不意に、いつか本で読んでから、ずっと大好きな英雄の冒険譚を思い出す。

 誰もが、子供の頃に夢見るように。

 現実を破壊してくれるような、何かを望んだことがあった。

 いや。本当のことを言うと、その心は今でも変わらないのだろう。

 けれども、それが眼の前に現れると、思いのほか現実的な選択肢を拒否することが難しいということを。

 アッシュは知っていた。


「…………そうですねぇ」


 何故初めて会っただけの彼女が、自分にそこまで期待をしているのか分からないが。

 それでも。寄り掛かって立ち上がる支えのためには、それで十分だったのかもしれない。


 壊れた石壁から差し込んだ春の午後の薄明は、牢屋の暗闇をベタ塗のオレンジに濡らしていた。

 非現実的な美徳を孕んだ空間に、不可思議の髪が煌めいて。風にたなびく。

 脳内で高速で血の巡るのが、運命の歯車の回る音のように響いている。

 ごくりと唾を飲む。浅く息を吸い込む。唇が震える。

 蛹から目覚めて二度目の生を知った蝶のような、その感覚を今も憶えている。

 ありふれた黄金の昼下がりの静寂を切り裂くように、私は喉を震わせた。

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