『縁煙』
『雪』
『縁煙』
ベランダの際に腰掛け、背中合わせに座る彼の背に体重を預けながら空を見上げる。雲の切れ目から覗く月明かりは手元を満足に照らす事も叶わない程に淡く儚い。薄手の衣類越しに伝わる彼の体温と微かに感じる呼吸の感覚に僅かばかりのくすぐったさと、不思議な安らぎを覚える。
朧気な明かりを頼りに片手で弄んでいた煙草の箱から最後の一本を取り出す。紙煙草特有の香ばしい匂いは随分と落ち着いており、私は恐る恐るソレを口に含んだ。ライターで火を灯し、深く煙を吸い込む。口内に瞬く間に広がる限り無くえぐみに近い苦味と微かな煙草の香り、ずっと放置していただけにすっかり湿気ってしまい、とても吸えるものでは無かった。追い立てるようにして煙を吐き出すと、火の付いたままの煙草をそっと灰皿に立て掛けておく。線香のように立ち上る紫煙をぼんやりと眺めていると、「隣に座っても良いか」と言われたので、二つ返事で頷いて上体を起こす。背後で動き出す彼を他所に、灰皿をそっと持ち上げてベランダの床へと追いやった。
半分程が残されたままの炭酸水のペットボトルと、今の私達が普段から愛用している銘柄の煙草を片手に、彼は私の隣にそっと腰を下ろす。窓際に二人で並ぶとほとんど余裕は無い。私は彼の肩に自らの頭を預けて、その横顔を覗き見た。濡羽色の美しい黒髪はその目元を覆い隠すような長さにまで伸ばされていて、彼の表情を伺い知る事は出来ない。結局彼は煙草が燃え尽きるまでついぞ何も言うことは無く、ただ黙ってソレが役目を果たす事も無く灰となる様を私と同じ様にじっと眺めていた。
そして、完全に燃え尽きた後に暫くしてから自分が持ってきた煙草を一本取り出して己の口に咥えた。フィルターに入っているカプセルを噛み潰し小気味の良い音を響かせると、煙を燻らせる。吐息と共に煙を吐き出しながら、半分程吸ったところで彼は煙草を灰皿の上に置く。
私が手を伸ばしてそれを取ろうとすると、彼は無言のまま新しい煙草を差し出すので首を横に振り、箱に戻すように促して灰皿に置かれた吸いさしを手に取る。口元に近付けると幾分かマイルドになったミントの香りが鼻腔を擽った。煙を一口含み、メンソールの突き抜けるような清涼感を楽しむ。
彼の方はというと月光に照らされる煙草の空箱を拾い上げ、訝しげにそれを眺めていた。それもそうだ、その煙草はもうずっと前に廃盤になったものだし、普段から吸っているものとはタイプがまるで違う。かく言う私も御大層に仕舞っていた事すら忘れていたくらいだ。
思い出すきっかけになったのは、彼と付き合い出して暫くした頃。煙草を始めた理由について話題になった時だ。その時は「なんだったっけな」なんて嘯いてみたけれど理由なんて明確だった。
初恋の相手に別れを告げられた日、彼が残していった煙草を手にしたのが始まりだ。忘れられなくて、忘れたくなくて、失恋の寂しさに混じる自分の選択への後悔と、重くのし掛かるあの人への未練、その全てが煙みたいに溶けて消えてしまうなら少しは楽になるだろうかと考え、慣れない手つきで煙草を口にした。
彼の所作を真似て吸った初めての感想は「不味い」だけだった。コーヒーとはまた違った苦さの中に、煙草特有の焼けた枯草の匂いが混じる。舌先は刺激物を取り込んだ時のようにピリピリとした感覚に襲われ、ついで頭の方もクラクラとする。ただの煙のはずなのに気管に絡み盛大に噎せて、激しく咳き込む。頬を伝う涙は失恋の悲しさ故なのか、それともこの焦げ臭い煙が目に染みたからか。
無理をしながら煙草を吸い続け、いつしか無理をするという意識すら無くなった。舌先に走る煙草の苦味も、むせ返りそうなほどにキツい紫煙にも随分と慣れたけれど、この匂いにだけは慣れそうに無かった。この匂いを嗅ぐとあの時の事が鮮明に思い出される。あの人の素っ気ない別れの言葉も、あの日に手にした煙草の匂いも、本気で不味いと思っていたこの味も、吸い終わるその瞬間までこびりついて離れない。
そして、あの日の幻想は火を消したが最後、紫煙と共に虚空へと消え失せる。童話『マッチ売りの少女』では明かりを灯した間だけは幸福な幻想を見ることが出来たようだが、私の場合はそうはならなかった。最も童話の結末を考えれば、幸福を抱いて死ぬ事と生きている限りこの不幸を思い出し続けるか、どちらが良いのかは悩ましいところであるとその時は思っていた。
彼が持ってきた炭酸水を貰い、口内で炭酸の気泡がパチパチと弾ける感覚を楽しむ。直前まで吸っていたメンソールの作用で温くなった炭酸水も冷たくなったように感じる。
炭酸水を彼に返すと彼自身も一口含み、蓋をして再び煙草を取り出した。その姿を横目にふと思案する。私があの時、ただ泣き寝入りして煙草なんか吸わずに居たらどうなったのだろう、と。まぁ少なくとも、今のような生活はして居ないだろう。彼とすれ違ったりお店で会う事くらいはあるかも知れないが、二人で出掛けたり、煙草を吸ったり、お付き合いしたりする事は決してなかったとは思う。
そう考えると不思議な縁だ。あの人も、私も、そして彼も三者三様に煙草を手にしなければきっと交わる事は無かっただろう。けれど、なんの因果か私達は紫煙の導くままに友愛を結んだ。不幸になったのは間違いなく煙草のせいであるが、それを幸福に変えたのも煙草のお陰だ。それでも身体には間違いなく悪いし、中毒性も有るから中々にやめられない。トータルで考えるなら間違いなくマイナスに振り切っているとは思うけれど、一生に一度の人生だ、こういうのも悪くない。
私はそんな思考と共に立ち上る紫煙を静寂の夜空に吐き捨てたのだった。
『縁煙』 『雪』 @snow_03
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