第4話 モスフィルム 

 その1974年3月7日、ソ連の首都モスクワでは、誰も予想していなかったことが起こっていた。

 東宝・モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』(監督:吉田憲二 アレクサンドル・ミッタ)が完成、その完成披露パーティーでの出来事である。


 モスフィルムの所長ニコライ・シゾフは、日本との合作に乗り気であった。実はこの4日にも黒澤明がモスクワに到着し、4月に『デルス・ウザーラ』のクランクインを控えていた。これは、シゾフ自らプロデュースにあたるのである。

 ところが、妙な噂がシゾフの耳に入った。「東宝配給でソ連には面白くない映画が上映されようとしている」というのだ。これは在東京の映画通商代表部からの情報である。

 だが、「東宝配給」というのは誤解である。『氷雪の門』は東宝洋画系でのロードショーが予定されていたが、あくまで「JMPの配給」であった。JMP製作・配給の映画の内容について、モスフィルムが容喙できる筋ではなかった。

 だから、このパーティーの席にいた『モスクワわが愛』の日本側プロデュ―サーが事情を話せば何ら問題はなかった。だが、『氷雪の門』に知識がなかったプロデュ―サーには、

「面白くない映画を東宝が配給するというが、ちょっと理解に苦しむ」とシゾフに言われても、何のことか分からなかったのだ。

 大塚和プロデューサー(東宝の人間ではない)が東京新聞モスクワ支局にとびこみ、東宝の映画広告を調べた。「来月上映」とシゾフが言っていたので、広告が出稿されているのではないかと思ったが、これは空振りに終わった。

 そこに居合わせた支局員が大塚に訊ね、モスクワ支局から東京本社に照会の連絡が入った。東京新聞は東宝に取材をかけ、これに慌てた東宝の営業本部はモスクワの安武竜プロデューサー(東宝)に電話をかけてきた。安武は帰国して報告すると言って、その場をしのいだ。

 だが、先んじて10日に帰国した吉田を、新聞記者が囲んだ。そして、「(モスフィルム側が)報復処置を考えているというのは本当か」「『モスクワわが愛』のプリントを押さえられたというのは本当か」と取材されたのだ。


 パーティーの席では、終始なごやかに乾杯乾杯と進み、シゾフも「『モスクワわが愛』は1年間の努力の賜物で、正にソビエトと日本の友好と友情の懸け橋である」と演説していた。

 その後に「最近気になることを聞いた」とシゾフは付け加えたのだが、これは「疑問の表明」だった。だが、東京の記者はこれを「圧力」と捉えた。『モスクワわが愛』の現像はもともとソビエトでやる契約になっていたのだが、否定してもそれは曲解された。


 その結果、12日の東京新聞夕刊では、「なりゆき次第では『モスクワわが愛』の「公開にも支障が出そうな気配になっている」と報じられた。

 これを受けて、東宝の松岡功常務(営業本部長)、越塚正太郎興行部長が12日午後に協議の結果、「ソ連との友好関係を損ねる恐れがある」と判断して、「JMPへの劇場賃貸を断ることにした」と通告してきた。

 この東京新聞のスクープを後追いする形で、各紙の報道が始まっている。たとえば読売新聞の取材に対して、松岡はソ連からの圧力を否定し、そもそも公開も決定したわけではなく検討段階だったが、「観客動員問題などで、こちらと条件がかみ合わないから断った」「日ソ友好の『モスクワわが愛』もあることですし、自主的にやめたということです」とコメントしている。


この12日の突然のキャンセルに、当然ながらJMPのメインスタッフは激高している。

 すでにポスター5万枚を作成し、東宝系の劇場でも予告篇が上映されていた。各地のプレイガイドでは単価700円の一般前売券(前記の単価500円の製作協力券とは別モノ)の販売も始まっていた。

 守田康司は東宝本社に出向いて興行部と掛け合ったが、埒が明かない。「東宝とは契約もまだ交わしていなかったので、法的措置も取れないんです」と守田は弱り切っていた。


 3月20日には村山三男が、所属する日本映画監督協会に協力を依頼した。この申し出を受けて、同協会事務局は関係方面の事情聴取を行なった。

 だが、「JMPの望月専務と守田常務の話」と、「東宝興行部の越塚部長と鎌田(陸郎)部員の話」は初めから平行線で、齟齬を来たしていた。(『日本映画監督協会の五〇年』より)

 望月・守田「ソ連当局から、この映画を上映すれば、『双方の友好関係が壊れる』旨の書簡が来たので上映出来なくなった、と(東宝から)言われた」

 越塚・鎌田「JMPは勘違いしている。上映を中止したのは、契約条件が整わなかったからだ。ソ連への配慮もあったが、文書など来た事実はないし、東宝が自発的にしたことだ。最終的には、JMPの方から白紙に戻したいとのことだった」

 その「契約条件」の具体案については、越塚も鎌田も言及していない。


 また、「外務省東欧第一課」の話として、「2月14日にソ連大使館より「『氷雪の門』の上映は、日ソ関係の発展に資するものではない。何等かの措置をとるよう要請する」との申し入れが同課にあったという。

 だが、その申し入れが文書によってなされたものか、それとも担当者限りの口頭申し入れであったか、またその内容が東宝側に伝わっていたかどうかは、『日本映画監督協会の五〇年』の記述でははっきりしない。


 一方、松岡と金子操常務(興行担当)は、東映の岡田茂社長を訪ねて、「東宝は社内事情で公開できないので宜しく」と『氷雪の門』のゲタを預けることにした。

そこで岡田は映画を見たのだが、「反戦的テーマは貫かれているが、反ソではない」と思った。東宝や東映が扱わなくても、いずれは独立系で陽の目を見るだろう。そうなれば、宣伝も反ソ的になるかもしれない。だが東映が扱えば、全世界に共通の反戦というテーマで提供できると岡田は考えた。

 そこで東映側から事前にソ連大使館の参事官に話を通したところ、「たいへん結構です」と言われ、その報告を受けた「ソ連本国」からも岡田に宛てて感謝のメッセージが届いたという。


 岡田は、「営業面でもひとつのメドがついたので東映洋画部配給ということでJMPとの間で話がまとまった」と説明している。

 6月25日に東映とJMPとの間で正式調印が行われた。これには東宝も陪席している。『氷雪の門』は札幌では7月27日から、東京では8月17日から新宿東映パラスなどで4週間のロードショーが決まった。


 ところが、公開直前になって、興行規模が大幅に縮小された。新宿東映パラスなど本州の上映予定館は一斉に撤退した。

 残ったのは札幌をはじめとする北海道・九州のパラス系の上映館であった。札幌東映パラスこそ7月27日から8月30日までの5週興行であったが、それ以外は8月17日からの2週間ほどの劇場公開になった。

 だが、その事情は正式には明らかになっていない。東宝による上映中止を大きく取り上げた各紙も、東映による上映館削減の理由については報じていない。その後の報道でも、東宝と東映を混同して「配給会社がソ連の圧力に屈して全国公開が阻まれた」とする不正確な論調が多かった。


 この豹変した態度に村山三男は茫然となった。国弘威雄や、美術監督の木村威夫、二木てるみら女優陣も同様である。東宝による上映中止を大きく取り上げた各紙も、東映による上映館削減の理由については報じていない。

 その後の報道でも、東宝と東映を混同して「配給会社がソ連の圧力に屈して全国公開が阻まれた」とする不正確な論調が多かった。


 JMPは倒産を余儀なくされた。その活動停止後、望月利雄は、自衛隊ロケで世話になった箕輪登と、製作会社MMCを設立した。

 1976年には映画『星と嵐』(製作:東京映画=MMC 配給:東宝)が製作され、望月は製作、箕輪は監修になっている。監督は出目昌伸、脚本は池田一朗と出目昌伸であった。

 これにより、望月側と東宝側は和解したとみられるが、主演は三浦友和と片平なぎさ、八千草薫。「百恵ぬき」の友和ではヒットを望むべくもなく、望月利雄もこれ以後は姿を消している。


 そして、1979年7月29日、村山三男は急性心不全のため亡くなっている。その2週間前、世田谷の病院で闘病生活を送っていた村山は、「もっともっと多くの人に見ていただく機会がほしかったです」と綴っていたという。



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