第3話 氷雪の門
原作小説のタイトル、そして映画のタイトルにも用いられる「氷雪の門」の由来はこうである。
正式名称を「樺太島民慰霊碑」という「氷雪の門」は、高さ8メートルの望郷の門である。それに、雪と氷の中で厳しく生き抜き、そして敗戦の失意から再びたくましく立ち上がった人々を象徴する高さ2・4メートルの女性像から成っている。
碑文
氷雪の門
人々はこの地から樺太に渡り樺太からここへ帰った 戦後はその門もかたく鎖された
それから十八年望郷の念止みがたく 樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に 木原豊治郎氏 笹井安一氏の熱意と全国樺太連盟の賛同並びに全国からの心あたたまる協力によってここに記念碑を造る
氷と雪のなかできびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家 本郷新先生の力作がここに出来上がった
この記念碑を氷雪の門と命名した
昭和三十八年八月十五日
稚内市長 浜森辰雄
それに隣接されて「九人の乙女の碑」も建立されている。1945年8月20日、玉音放送から5日後に、樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、自ら若い命を絶った九人の女性の霊を慰めるために建てられたのだ。
交換手姿の乙女の像を刻んだレリーフをはめ込み、亡くなった九人の女性の名前、そして彼女たちの最後の別れの言葉となった『皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら』の文字が刻まれている。
碑文
戦いは終った それから五日昭和二十年八月二十日
ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした その時突如日本軍との戦が始った 戦火と化した真岡の町 その中で交換台に向つた 九人の乙女等は死を以って己の耺場を守った 窓越しにみる砲弾のさく烈 刻々迫る身の危険
今はこれまでと死の交換台に向い「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」の言葉を残して静かに青酸駈苛里をのみ 夢多き若き花の命を絶ち職に殉じた
戦争は再びくりかえすまじ平和の祈りをこめて尊き九人の乙女の霊を慰む
昭和三十八年八月十五日
稚内市長 浜森辰雄
寄贈 東京都 本郷 新
札幌市 上田佑子
殉職した九人の乙女
高石ミキ 可香谷シゲ 吉田八重子 志賀晴代 渡辺照
高城淑子 松橋みどり 伊藤千枝 沢田キミ
昭和天皇・香淳皇后は、1968年9月5日に行幸啓の際、「九人の乙女の像」について浜森市長が説明し、
「両陛下は九人の乙女の悲話をお聞きになりました。両陛下は、目頭に涙を浮かべられ、深く頭をお下げになり、九人の乙女の冥福をお祈りされました。後日、この時のご感銘を次ぎの様に詠まれました」
御製
樺太に 命をすてし たおやめの
心を思へば むねせまりくる
御歌
樺太に つゆと消えたる 乙女らの
みたまやすかれと たヾいのりぬ
この御製と御歌を刻んだ碑は、翌1969年8月、「乙女の像」のまわりに建立された。
稚内市では毎年8月に、樺太ゆかりの人々による慰霊祭「氷雪の門・九人の乙女の碑平和祈念祭」を行なっている。
「氷雪の門」にも「九人の乙女の碑」にも名を連ねている彫刻家・本郷新については言うまでもない。戦後日本の具象彫刻を牽引した札幌生まれの彫刻家である。戦後、モニュメンタルな野外彫刻の制作にとりわけ熱意を傾けていた。
なお、「九人の乙女の碑」の碑文は、一部改変されており、建立当時とは異なっていることに留意されたい。当初は「軍命令により青酸駈苛里をのんた」という趣旨だったのだ。
* * *
浜森辰雄は1959年、日本社会党系の道議から稚内市長に初当選。それ以後、連続8期、市長を務めていた。1963年、「樺太慰霊塔」と「九人の乙女の像」の建立にあたっても積極的に動いていた。
その浜森が、『氷雪の門』のメインスタッフからロケ隊の誘致を打診された。浜森は快諾し、ロケ隊への優遇を決めている。
何しろ、「樺太慰霊塔」建立にあたっては、全国樺太連盟の助力を得ているのだ。三池が理事を務める引揚者団体全国連合会とも友好関係にあった。浜森は特別予算を組み、市職員にも全面協力を指示した。
樺太・真岡に見立てた各地での撮影のため、市の職員はエキストラ集めに駆けずり回った。国鉄南稚内駅や自衛隊基地の高台では逃げ惑う住民を撮るため、五百人が調達されたている。
「それで、避難民なんかも五百名とか、一千名を動員しましたけれども、最低二十から三十回リハーサルした覚えがあります」
これは、助監督であった新城卓の証言である(和歌山県民文化会館における講演)。五百人のはずが「五百名とか、一千名を動員しました」というのは、新城の癖であろう。
また、避難民のシーンでは、戦禍の中で疲労困憊の姿を撮るため、何度もテストを繰り返したという。
「ハイ、テスト、テストと二十回から三十回やって来ると、避難民がヘトヘトに疲れるわけなんです。もう、いやだこと、しんどいこと…。この、しんどいというところで本番を廻すんです。そのしんどさが映画に、画に映るんですね」
「しんどい」というのは、ここでは関西弁である。北海道の方言では、同じ状態を「こわい」という場合もある。
新城卓が証言した中でもこの部分は、基本的に信用できる。なぜか、といえば、北海道新聞社に入社して二年目の記者・喜多義憲も同じ場面を取材しているからだ。
なお、新城は製作主任の大橋和男に声をかけられ、助監督になっている。監督は村山三男、監督補が山野辺勝太郎、助監督が程原武司と新城卓であった。
ただ、守田康司の妻や娘が、市民が持ち寄ったモンペや防空ずきんを再縫製したというが、これは記録にはなかった。
この長期ロケののち、御殿場での撮影も行われている。前述の通り、箕輪登が陸上自衛隊の協力を約束しており、戦闘場面には陸上自衛隊の戦車18台が「ソ連の戦車として」登場していた。
そのあと、『氷雪の門』の撮影は、9月30日のクランクアップまで行われた。編集、ダビング、一部リテイクを経て、10月27日に初号プリントが送り出された。
それよりも前、9月6日に宣伝の基礎が固められた。田中角栄首相が出演女優の栗田ひろみ、木内みどり、岡本茉莉らを官邸で引見したのだ。箕輪登が「ぜひ励ましてやってくれ」と会見を斡旋して実現したものである。若い女優に取り囲まれて、田中首相は上機嫌だったという。
翌7日には、手直しが入る前の「一応の完成作品」が新宿・朝日生命ホールで関係者に披露された。関根律子役で主演の二木てるみも来場していたが、彼女が自決するラスト・シーンになると会場を飛び出していったという。
作品完成後、各地で試写会が行われた。もちろん、皮切りは稚内である。ほかに札幌、小樽、東京、福岡、佐賀などで行われ、約3000人の観客が見ている。佐賀というのは、三池の選挙区が佐賀県全県区であるためであった。
望月は、作品が予想以上の反響を呼んでいることに、手ごたえを感じていた。
たとえば、前出の上田佑子である。試写で『氷雪の門』を見た佑子は、上映が終わると化粧室に飛び込んでいたという。これは二木てるみによく似た反応であった。
この『氷雪の門』を外部から支援していた団体に、東京建設協会がある。大成建設を代表幹事とするこの団体は、建設企業30社を統括していた。10月23日に東京建設会館の大会議室で開かれた試写会には、各社の社長や役員が列席したが、大会議室を出た彼らの目は真っ赤だったという。
11月22日には、永田町の自民党本部でも試写室が埋まって、第二次田中角栄内閣の閣僚たち、衆参両院議員、高級官僚が観賞している。
『氷雪の門』は、文部省選定・優秀映画鑑賞会推薦・青少年映画審議会推選・全日本教育父母会議推薦・日本PTA全国協議会特別推薦になった。
あとは全国主要都市でのロードショー、そして一般封切を待つだけだった。東宝興行部との協議の結果、3月30日から丸の内東宝、渋谷宝塚など東京5館で、ついで札幌、大阪、福岡などの計9館で全国ロードショー公開することが決まっていた。
それに先がけて1974年3月1日から8日までの8日間、稚内劇場(略称「稚劇(ちげき)」)で「全国PR特別ロードショー」と銘打って、1日4回の特別上映を稚内市が主催した。市役所の中に上映実行委員会が作られ、浜森が陣頭に立って券を売りさばいたという。
上映初日こそ出足は鈍かったが、2日目から「稚劇」の1階、2階を観客が埋め尽くしたのを、道新の新米記者の喜多義憲は記憶している。結果、五万五千人の市民の半数が「稚劇」に足を運んだことになる。
サハリンとは対岸の稚内には引揚者も多かった。そういう土地柄だったのだ。この人たちが望郷の思いで映画を見つめた。場内のあちこちから、すすり泣きが聞こえたという。
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