第2話 クランクインまで

 

 望月利雄プロデューサーが、『氷雪の門』の企画を暖めたのは、1964年にさかのぼる。

 望月が、横浜の電話局の保健婦と雑談するうち、彼女は「真岡の交換手秘話」を話したのだ。それがきっかけだった。感銘を受けた望月は、のち取材を重ねるうち、これを映画にしたいという気持ちが募っていった。

 「あの頃は、私が映画製作の場としていた新東宝が潰れて数年後。日本映画が斜陽の色を深めてきたときでした」(望月インタビュー。「AVジャーナル」1973年11月号より)


 この頃の望月の代表作としては、まず『戦艦大和』(1953年6月 新東宝)が挙げられる。吉田満原作の『戦艦大和ノ最期』を八住利雄が脚色、阿部豊が監督しており、これは当時の日本映画の最高峰といってよかった。出演は高田稔、小川虎之助、佐々木孝丸、藤田進、見明凡太朗、伊沢一郎、丹波哲郎、高島忠夫であった。

 それに次いで、『姿なき一〇八部隊』(1956年2月 新東宝)がある。これは、棟田博原作の『サイパンから来た列車』を八木隆一郎、近江浩一、須崎勝弥、小林太平、長谷川公之が脚色、佐藤武が監督している。主演は笠智衆と中山昭二である。

 深夜の東京駅に、半透明の列車が停まった。車輛から降りて整列したのは、サイパン島で玉砕をとげた部隊の将兵たちである。ひと晩、彼らは遺族の戦後の生活を目にしたが、再び東京駅に集合すると、列車に乗ってサイパン島へ向かった。そういう一夜の物語であった。


 新東宝の戦記映画と聞くと、その軍国美談調を毛嫌いする識者も多かった。だが、この二本の原作本には、戦争に対する望月の思いが結実していた。

 ただ、この頃すでに新東宝は傾いていて、第二東映との合併の話も、新東宝のワンマン社長であった大蔵貢によって蹴られている。その大蔵も1960年に退陣、1961年に新東宝も倒産した。望月も他社に新天地を求めることになった。


 1970年、望月は、守田康司と本格的に出会っている。

 守田は円谷プロを退社したのち、新国劇映画の製作部長になっていたが、その守田と望月はコンビを組むことになった。その価値をお互い認めて、「製作:望月利雄 守田康司」として三本を製作している。『喜劇 女もつらいわ』は新国劇映画の製作、『あしたのジョー』は日活と新国劇映画の製作、もう一本『夜の最前線 東京(秘)地帯』は日活の単独製作であった。このうち、『喜劇 女もつらいわ』の主演は高田美和と浜田光夫。『あしたのジョー』の主演は石橋正次と辰巳柳太郎であった。

  『喜劇 女もつらいわ』は日活の配給だったが、『あしたのジョー』『夜の最前線 東京(秘)地帯』は「ダイニチ映配」の配給になっている。これは大映も日活も、テレビ業界の興隆に押される形で、配給網を統合し、ダイニチ映配を設立することになったのである。

 これは、望月には「いつか来た道」であった。いずれこの統合が失敗することは目に見えている。望月は再び新天地を探すことになった。

 

 実は1972年の5月に、既に脚本『氷雪の門』は脱稿していた。この脚本は内容が複雑で多岐にわたると予想されていた。

 望月は、5年がかりで集めた「真岡の交換手秘話」の資料を持ち込んで、シナリオにすることを依頼した。まず頼まれたのが八木保太郎である。だが、八木稿は「反戦色の強い脚本」となり、望月のイメージとはちょっと合わなかった。

 「わたしの考えたのは、戦争をバックにしたスケールの大きな叙事詩なんですね」(望月インタビュー)

 次いで松山善三に依頼したが、松山稿は今日的視点から1945年の悲劇を見つめ直したもので、これも望月のイメージとは重ならなかった。


 その頃、望月は、『暁の挑戦』(1971年)という映画を通じて、国弘威雄という脚本家と出会っていた。

 これは、『御用金』『人斬り』を製作したフジテレビと、新国劇映画との共同製作であった。すでに『喜劇 女もつらいわ』『あしたのジョー』の二本を製作して、新国劇映画の懐に入っていた望月は、この『暁の挑戦』にも「製作・原案」として加わっていた。

 脚本は橋本忍、国弘威雄、池田一朗(のちの隆慶一郎)の共作、監督は舛田利雄、主演は中村錦之助(のち萬屋錦之介)、若林豪、渡哲也、島田正吾、辰巳柳太郎であった。

 国弘威雄は橋本忍の弟子であり、師匠との共同作業は、中村錦之助も主演していた『風林火山』などに次いで、六本目であった。


 そんな国弘威雄に望月は依頼したのだ。折しも発刊された金子俊男の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』(北海タイムス連載、講談社刊 1972年)を原作にして国弘稿が脱稿された。

 「往時ありのまま、素直に描きたい」(望月インタビュー)という意向どおりの脚本だったという。

 ただ、念のため断っておくと、国弘稿が「往時ありのまま、素直に描きたい」というのは事実ではない。国弘はエッセイの中で、そのことに触れていた。

 「脚本の中に、事実関係の設定上で、全く事実と違うところがある。それは亡くなられた真岡局交換手の方の編成を九人としているが、(真実亡くなられた方は九人)実は十二人編成が正しいと推定される」

 当初、国弘は「服毒後、意識を取り戻して現在(1973年)も生存される方」「たまたま引き揚げる家族を見送るために、砲撃直前、局を出られたと思われる方」「緊急連絡のために局を出られた方」ら主人公とすることを考えていたが、取材に応じてくれた非番の交換手・桜井千代子から、「生きのびた服毒者」の深い悔恨を聞くうちに、国弘は「その方向を捨てざるを得なかった」というのだ。

 この「九人の交換手」の悲話に絞るという国弘稿の方向性は、「十人服毒して九人生還」とする原作本とも一致していた。


 望月は1972年には、東宝の8・15シリーズ第6弾に参画することになった。この『海軍特別年少兵』は、東宝映画の製作で、脚本は鈴木尚之、監督は今井正であった。望月と共に製作にあたったのは、内山義重という人で、この内山は『橋のない川』『橋のない川第二部』『婉という女』で今井とのコンビ作が多かった。

 だが、この『海軍特別年少兵』は興行的には惨敗だった。東宝の8・15シリーズも、次第に低予算を強いられるようになっていて、今井正の手腕をもってしても挽回はできなかった。14歳の少年兵を巡る悲劇も、それを見つめる主演者が、地井武男や佐々木勝彦とあっては誤魔化しようがない。三国連太郎や小川真由美ら助演陣も空転した。


 東宝の8・15シリーズも、第5弾『激動の昭和史 沖縄決戦』のあとがこれではもう終わりかと囁かれていた。

 東宝は経営危機を脱するため、1972年には本社での映画製作を停止、東宝映画、東宝映像、東京映画、芸苑社、青灯社を五つの核とした製作体制に切り替えている。ただし、専務取締役の藤本真澄をトップに据えた東宝映画ですら年に数本しか稼働しなかった。

 これまで8・15シリーズの陣頭指揮にあたってきた藤本にも、なす術はなかった。この惨状も外部プロデューサーにすぎない望月も見ているしかなかった。ただ、来たる『氷雪の門』の製作にあたって、その惨状が自分の上に降りかかってくるのは避けようとした。


 「いまの映画界の実情からすると、独立プロとして映画を撮るには、製作費を自己調達して、なおかつ、前売券を売って最低規模の興行を保証しないと、折角つくっても上映されないということがあります」(望月)


 望月が最後に頼ったのは、国際放映の安部鹿蔵社長である。国際放映とは、ほかでもない新東宝の後身であった。

 1961年5月には新東宝は映画制作を打ち切り、8月をもって倒産している。こののち、清算会社としての新東宝と、配給部門の大宝株式会社、制作部門のNACの三つに分割している。NACはテレビドラマに進出、それ以後、業績が良化し、経営再建に成功した。1964年には商号を国際放映に改称している。安部鹿蔵はこの国際放映の初代社長であった。

 一方、新東宝の代表取締役専務には1961年から1963年にかけて小倉寿男という男が座っていた。このときの手腕には見るべきものがあると、安部は見ていたという。その小倉はこの後、小倉興業を興して、その社長になっていた。


 安部鹿蔵の斡旋で、小倉寿男が乗り出すことになった。たまたま、日本軽金属の社員として小倉の先輩にあたる三池信代議士(1966年には引揚者団体全国連合会理事長)が『氷雪の門』の内容に惚れ込んで協力を約束した。

 

 1972年5月、株式会社ジャパン・ムービー・ピクチュア(JMP)が設立した。

 代表取締役会長には三池信、社長は小倉寿男、専務に望月利雄、常務は守田康司という顔ぶれでJMPはスタートしている。だが、役員がそろっても、すぐにクランクインとはいかない。

 三池は1億円を出資していたが、それでは予算には遠く届かない。クランクインするまで、役員たちは資金作りに駆けることになった。協力企業に、単価500円の製作協力券(公開時点で前売券に換わる)を買ってもらうことで賄うのである。


 「結論からいうと、100万枚の前売券をわれわれの手で売りさばないとペイしないわけですね。1枚500円で5億円、興行サイドの取り分が半分、残り2億5千万円の7割割程度がわれわれ製作サイドの取り分ですから、5億の金を集めても製作費として製作で使える金は1億7~8千万です」(望月インタビュー)


 それでも1973年5月には、『氷雪の門』は東京・調布の大映撮影所でセットインしている。6月末から7月にかけて札幌、稚内でロケーション、8月上旬完成。製作費2億5千万円。9月に東宝系洋画チェーンで公開予定。

 交換手役に二木てるみ、鳥居恵子、岡田可愛、今出川西紀、木内みどり、岡本茉莉、藤田弓子ら。ほかに千秋実、丹波哲郎、黒沢年男、南田洋子、田村高廣、栗田ひろみら。島田正吾、若林豪の新国劇勢が出演するのは、望月=守田ラインの強さによるものだろう。浜田光夫も『喜劇 女もつらいわ』の線と思われる。


 クランクインに先がけての製作発表の席で、望月は言っている。

 「映画らしい映画が映画会社では出来なくなっている。そこで三池先生らに大きな力を発揮してもらい、独立プロの形で作っていこうというわけ。先生の後援会を通じ、一流の建設会社、乳酸飲料会社の社長さん、郵政省、電電公社まで製作や前売り券で協力してくれています」


 三池は1972年7月、第一次田中角栄内閣で郵政大臣として入閣している。12月からの第二次田中角栄内閣には三池は入閣せず、衆議院の運輸委員長に転じている。ただ、三池は5か月間、「郵政大臣」だったわけで、この肩書は大いに利用されることになった。

 もう一つ、注目される人事があった。第二次田中角栄内閣では、箕輪登代議士が防衛政務次官になっているが、望月は防衛庁にこの箕輪を訪ねて『氷雪の門』への陸上自衛隊の協力を頼んだのである。


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