第64話 死にたくない
メルワートへの協力を終えて施設から出ると、ムーテがまだリアを抱え、門の外で待っていた。
「……待ってたのか」
「どんな顔で出てくるかなって」
見透かされているようで、居心地が悪い。
「俺は、どんな顔をしてる」
「疲れたって顔」
レイノンやトーリス相手なら、そんなことはない、と言っているところだが。
「……まあ、そうだな。疲れたよ」
今の状態で、あれほどの魔法圧をかけるのは正直、かなりしんどかった。
「戦争、止めなかったんだね」
「何か起こったのか?」
「そこの水路を見れば分かるよ」
孤児院からほど近い水路に近づくと、水位が上がっているのがすぐに分かった。
「ああ。まあいい。約束の二週間さえ守られれば、もう俺に、戦争を止める理由はない」
二人はこれで、施設からは出られない。ピスパクが無事であったように、内部には水の一滴も侵入することはないだろう。
未来は、もう変わった――。
「戦争を止める理由って、何」
「そのままだ。戦争を止めることによる利益の話だ。もう目的は達成したから、戦争を止めることによる利益はない」
「利益って何。これから大勢の人が死んで、苦しんで、悲しむことになるのに」
「二人だけ助けられれば後はなんでもいい」
俺は俺の目的さえ達成できれば、それでいい。ムーテは怒るだろうが、それだけだ。
「みんな、そんなものだよね」
だから、彼女がそう言ったとき、俺は少し、驚いた。怒っていないわけではないのに、ムーテは努めて冷静だった。
「戦争が嫌なのは自分の生活や周りの人の命が脅かされるから。他国の戦争のことなんてすぐに忘れる。でしょ?」
瞳の毒を輝かせて、冷たい笑みを浮かべ、歩み寄ってくる。
「だって、わたしたちが何をしたって、どうせ戦争は止められない。でも」
瞬きとともに、冷笑はかき消えて、怒りで燃える音符だけが残る。
赤いと、錯覚するほどの怒りに満ちた瞳が、俺の首根っこに縄を巻き付け無理やり捕まえて、離さない。
「あなたには、止められるだけの力がある」
「そんな力、俺にはないよ。せいぜい、この二週間止めるのが限界――」
「こんな世界じゃあ、バイオリンは弾けないの!!」
リアがムーテの顔を見上げる。
「……ムーテの利益だけじゃないか」
「それの、何が悪いの」
リアを地面に優しく下ろしたムーテは、その頭を撫でると、歩き出す。
「どこに行くんだ」
「バイオリンを弾きに行く」
「無茶言うな。もう時期、この辺りも戦地に――」
轟音が鳴り響く。入口の方からだ。
「ラ……」
リアの見た未来の通り。
始まる。
「死にたくないの。――好きなもの全部、こんなことで諦めたくない」
空間収納から空色のバイオリンを取り出したムーテは、怒号が飛び交う戦地へと真っ直ぐに歩いていく。
「ラスピスのことは、どうするんだ」
ムーテはラスピスを諦める。それが、リアの見た未来だ。
「――」
「今、なんて」
怒号と悲鳴と叫びで、小さな声はかき消されてしまう。
「大丈夫。――絶対に取り戻すって、言ってくれたから」
振り返ったムーテの笑顔に、迷いはなかった。
彼女を見送り、しばらくして、リアが箜篌へと姿を変える。その前の地面に座り、弦に指をかけて――震える手を、ぎゅっと握りしめて抑え込む。
「……俺に何ができるって言うんだよ」
箜篌に手を当て、手の甲に額を押しつけ、地面を見つめるしかできなかった。
***
「その檻、壊せそう?」
「いいや、無理だな……」
何をされると言われたわけでもないが、オレたちは脱走しようとしていた。
――レイがいてくれなかったら、オレは恐怖に負けていただろうし、脱走しようなんて思いつきもせず、きっと震えていただろう。
檻を握る手にも汗をかく。強く引っ張ったり押したりしてみるが、びくともしない。バレやしないかという緊張で本来の力が入らない、というのはあるが、それを抜きにしてもこの檻は固い。
「力押し作戦は失敗かあ……」
こんな状況でもいつもと変わらない調子でいられるレイが羨ましく、尊敬もする。
――が、一番思うのは、心配だ。
恐怖がないというのは恐ろしいことだと、ルジがいつか言っていた。だからオレも、見ていて、不安になる。こんな状況だし。
「大丈夫だよ、トーリ。僕がついてるからね」
それでも。つい、頼ってしまう。そんなのはよくないと分かっているのに。
「ここに来た道順は分かってるから、檻さえ出られれば僕たちの勝ちだ」
「でもどうやって出る?」
「そんなの簡単だよ。壊せないなら、次に開いたときを狙えばいい。僕たちはこれでも、ルジに預けられている身だから、ご飯はほぼ確実に用意される」
「この檻の間から食事を差し入れるのは不可能、か」
同じ双子のはずなのに、レイはどうしてこんなにも賢いのだろう。その上、オレは魔族で、レイは人間だ。
もし、オレたちが逆だったら、レイは今のオレよりもずっと、なんでもできただろうに。
オレがレイから種族による利益を取り上げてしまったような気にさえなる。
「向こうも最初は警戒してると思うから、怯えたフリをしよう」
「警戒?」
拉致監禁をするような者がどうして、オレたちに警戒するのか。
「僕とトーリ、ハミラスとメルワート。違いはただ、檻の中にいるか外にいるかだけだからね。向こうも、僕たちが歯向かってきたらどうしよう、って思ってるはずだよ」
「確かに……」
拉致監禁というと仰々しいが、檻一つで隔てられているだけだ。
「レイは、すごいな」
「わーい。トーリに褒められたー」
レイがこれだけ頑張っているのだから、オレも、頑張らないと――。
『ウ、ァァ、アア、ァーーーー!!』
『キャーッ!助けて、嫌だ、嫌だ!!』
『死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない……ギャハハハ!!』
でも、ムーテの家みたいな声がたくさん聞こえてきて、それをレイに悟らせないようにするので精一杯だ。
「トーリは、何か聞こえる?ルジの声とか」
「ちょっと待ってろ……」
目をつぶり、音に意識を集中させる。
『痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い』
『うあああああ!!ゴンゴンゴンゴン!!』
『助けて……もう、嫌だ……。おかしくなる……!』
『うわああん!』
『死にたくないの』
肉の爆ぜる音。血の流れる音。迫る膨大な量の水。
数多の狂いそうな声が流れる川の中で、聞き流しそうになるくらいの、たった一つの綺麗な音。
たった一つだけ、救いになる、綺麗な音がある。
『――好きなもの全部、こんなことで諦めたくない』
「ムーテ……」
「ムーテ?なんて言ってるの?」
どうやら、ルジと会話しているらしい。
『ラスピスのことは、どうするんだ』
かき消されてしまうくらいの小さな声。けれど、確かに、届いた。
『……分かってるなら、助けてよ』
『今、なんて』
ルジには届かなかったから、ムーテはあえてもう一度は、言わなかった。
『大丈夫。――絶対に取り戻すって、言ってくれたから』
だから、オレは。取り戻さなきゃならない。なんとしてでも。ここを出て、バイオリンを作る。
そのとき、
『……俺に何ができるって言うんだよ』
滅多に聞かないルジの弱音が、ぽつりと聞こえた。
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