第57話 ニーグ過去編-2

 ルジ様と出会ったのは、それからさらに五年。首相を十年近く務めた頃だった。四年に一度の選挙で、三回連続の当選を果たした首相となり、順風満帆で――無味乾燥な日々の中で出会った。


 素晴らしい音楽が聞けるという噂はいつしかワシの耳にまで届くようになったが、特段、興味はなかった。


 けれど、この五年、魔族への対策に追われ、いつ襲い来るかも分からない緊張感の中、夜遅くまで付き合ってくれた周囲の者たち。彼らにもたまには、娯楽が必要だろうと思い、招いてみることにした。


 コンコンコンと、三回、扉が叩かれる。


「どうぞ、入っておくれ」


 自ら扉を開き入ってくるその麗人の美しさは、ワシでさえ魅入られるほどで、演奏を聞く前に何人かが失神した。


 右目しかないというのに、その青い右目に吸い込まれるようにして、誰もが動きを止めた。


「参ったな。大方、国のお偉方は綺麗な顔なんて見慣れてるものだと思ったんだけど」


 その聞いていると眠たくなるような、心地よい低い声に、この場での言葉遣いを指摘できる者さえおらず、また何人かが、脱落した。


「申し訳ない。しばらく物騒な世の中で、娯楽に飢えておるものでの。早速、お願いできるかの?」


「――喜んで」


 足元の灰色のネコが、箜篌へと姿を変える。その楽器の美しさにまた、心を奪われる。


 奥から手前に流れるように動く、長い手指。どこか懐かしい響きを持つ、澄んだ音色。


 すっと短く息を吸い、青髪の麗人は、奏でる。


「――静謐を失う前に 目を背くのをやめよう」


「両手から零れるなら それは手に余るもの」


 そこでやっとワシは、彼が何をしに来たのか――ここに招かれるために街で演奏をしていたのだと、理解した。


 ――水だ。彼は魔族に、水を分け与えろと言っている。どうせ使わぬ赤い水がたくさんあるではないかと。


 ただ、詩を理解していたのは冒頭のみ。後は演奏に魅了されるがまま、言葉などまるで頭に入ってこなかった。


 それでも、演奏が終われば彼が言いたいことは、嫌なくらい、心に残っていた。


 周りを見れば、まともに意識を保っていられたのは、ワシだけであった。だからその青い瞳は、ワシを真っ直ぐに見つめていた。


 このときのルジ様は、恐らく、本気ではなかった。ワシの意識を残すために、配慮してくれていたのだろう。


「お願いだ。魔族に水を分けてやってくれ。水が足りないせいで、毎年死人が出てるんだ」


 音楽と美の持つ力に、絆されそうになる――。


 が、ワシは、この国の首相であった。


「ならん」


「どうして?」


「それが、国民の総意だからじゃ」


 毎年、魔族に水を分けるか否かを問う無記名投票を行っていたが、国民たちの声は一度たりとも、水を分ける方には傾かなかった。


 その年の投票はちょうどルジ様がやってきたその日まで。翌日には結果が出ていた。


「それでも、首相が言うことは絶対だろ。なんとでもできるはずだ」


「毎年、死者が出ておるなら、そのうち水不足も解消されるじゃろうて」


「お前……びっくりするくらいクズだな」


「麗人のお目を汚してすまんのう」


「麗人、ねえ。ま、俺も大概なんだけどな」


 ルジ様には、招かれさえすれば、首相であるワシと一対一で話ができる自信があったのであろう。凄まじい自信と、それを可能にするだけの力がそこにはあった。


 部屋にある魔力探知器は、ネコが姿を変えるその時以外、少しも反応していなかった。


 ――つまりは、魔法のない、純粋な音楽だけで、首相官邸を乗っ取れるほどの力を、彼は持っているのだ。


「俺が怖いか?」


 彼に、嘘は通用しないだろう。きっと、人間ではない、神に近い存在だ。


「……正直、招き入れたことを後悔しておるわい」


「素直でよろしい。まあ少なくとも、恐怖に屈して意見を変えるやつよりは、信用がおけるな」


 それを聞いて、どうも、魔族を救うために善意で動いているわけではないのかもしれない、という気がしてきた。


「何が目的じゃ」


 そのとき、彼の左目が開いた。その目が赤色をしていて、思わず顔に出してしまうほどに驚いた。


「俺の目的はただ一つ。――戦争をなくすこと。もっと言えば、人魔の共生だ」


 それは、彼を受け入れる世界の実現ということなのかもしれなかったし、本当に、純粋に戦争のない世の中を目指しているのかもしれなかった。


 ワシにはどちらでもよいことであったが。


「それならば、水を与えない方がよい。水を与え、生活に余裕が出れば間違いなく、戦争が起きる。水さえなければ、今の魔族が反旗を翻すことなどできぬじゃろうて」


 切り捨てることであえて戦力を削ぐ。どちらかといえば、そちらが本心であった。


 ――否、妹のことが頭をよぎってしまった時点で、何が本心であったかなど、今さら、確かめようもないが。


「なあ、ニーガステルタ。水を飲まずに三日過ごしたことはあるか?」


「ない。恐らく、一日たりとも、水を飲まなかった日はないのう。じゃが、魔族は三日くらいなら飲まずとも平気じゃろうて」


 ルジ様は、嘲笑った。

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