第39話 フルート-3

 空のように青い右目から顔全体に視野が広がると、男の顔そのものが整っていると分かった。


 お母さんがフルートを買った男の人なんて、この人に比べたらその辺の石ころ――否、砂粒程度だ。申し訳ないけれど。


「そのフルートは、赤色だね」


「見えるの!?」


「見えるよ。君が、赤が好きだってことが、すごく、伝わってくる。でもね」


 男がネコの背を撫でると、ネコは姿形を変えてなんと、ハープのような形の、楽器になってしまった。


「何色に見える」


 ――その楽器は、虹の色をしていた。だから、何色に見えると聞かれても、何色にも見えるとしか答えられなかった。


 きれいだった。わたしの真っ赤なフルートよりも、遥かにきれいな、赤だった。虹の中の赤だけを取ってみても、格が違った。


「赤だけを以て赤に染めようとするのは、間違いじゃない。確かに、たくさんの赤も必要ではある。でも、それだけじゃあ足りない」


 虹色の楽器に指をかけた男は、奥から手前に、手前から奥に、指を滑らせる。


「しかし、人というのは愚かだと思わないか?ずっと、魔法が使えないままでいればいいものを、外套に緻密な魔法機構を編み込むことで、それを介した魔法の行使を可能にした」


 弦をはじく手が行ったり来たりするのを、わたしは目で追っていた。そのハープからは、虹の音が奏でられていた。


「杖と同じだ。内部に魔力の通り道を作り、魔法が使えない人類の魔法抵抗を無視できるよう、外部には不魔体を利用した。そうすれば、魔法化学的に人類の魔法抵抗から離れた位置に、活性化した魔力を置くことができる。分かるかな?」


「難しくてよく分かんない」


「素直でよろしい。――つまり、人類は千年の間にものすごく頑張って、魔法が使えるようになったってことだ。あの外套を羽織ってさえいればね」


 いつしか、怒号や、誰かが犠牲になる嫌な音、断末魔の悲鳴は、消え去っていた。


 戦場の視線を男は一身に集め、視界から色が消える。音が、色が、消えた。


 青い右目だけで浮かべる不敵な笑みには、文字通り、敵など――彼に匹敵する音楽家など、この世にいないのだと思わせるだけの力があった。



 その彼がゆっくりと開いた左目は、初めて見る魔族の目の色――赤を宿していた。



 すぅ、と息を吸い込んで。


「この静謐せいひつを守っていこう」


「この世は人だけのものじゃないから」


「鳥の戯れ、海の声が」


「聞こえない今に気づいて――」


 澄み渡るような歌声。高音域が心地よく、弦の響きの中にあるほのかな懐かしさに、心が満たされる。


「ネコの声で目覚める朝と」


「嘆きの声に沈む朝と」


「それは誰が決めるのか」


「少なくとも俺はネコがいいな」


 指の動きが一気に加速する。虹色の音が跳ねる。


「地の底では魔族の叫び、届かず」


「海の底では人間の願いは叶わない」


「空を見上げて月に手を伸ばせば」


「誰にも月を捕まえることはできない」


 その音楽は、虹色だった。一度聞けば世界の色が変わるほどに、鮮やかだった。


「この静謐を守っていこう」


「この世は人だけのものじゃないから」


「世界に耳を傾けて」


「響かせよう」


「痛みのない音楽を」


 その場の全員が、彼に釘付けになっていた。戦争は、止まっていた。それを聞きつけた人々がさらに集まる。


「星の数を数える夜と」


「数え知ることもできぬ日々」


「誰もが望む音楽を」


「当たっても痛くない音楽を」


 彼以外のすべてが、静まり返っていた。流れるような間奏に、楽器は嬉しそうに音を返す。


「この世界が決して静謐でなくとも」


「ネコのあくび、鳥の羽ばたき、笑う木々」


「聞こえない今に気づいて」


「俺たちの歌を歌おう」


 天から降ってきたようなその音楽は、それより後のわたしの人生すべてを、そっくりそのまま、変えてしまった。


「この静謐を侵すのは人だけ」


「この世は人だけのものじゃないから」


「世界の嘆きを聞こう」


「その一音である俺たちと」


「同じ朝を迎える世界」



「ネコのように眠ろうそして」


「包み込もう」


「痛みのない音楽で」


「静謐を貫いていこう」



 その音楽が終わるとき。ここにもう、戦争はなかった。



 双方とも、外套を脱ぎ捨てて燃やした。


 後から加わった、偉そうな人間の老人とお金持ちそうな魔族が、手を取り合った。


 今にして思えば、それは人間の大統領と砂の魔国領の代表が手を取り合った歴史的な瞬間だったのだ。


 ――鳴り止まない拍手の中。けれど、死を悼んで涙を流す者や、敵を討つまで止まれないと叫び、止められている者もいた。


 男は一礼して、ネコに戻った楽器とともに、ヘントセレナへ入国し、フードを被る。わたしはそれをとてとてと追いかけていった。


 いつしか、歓声も聞こえなくなり、川のせせらぎも、動物の音も、草木が揺れる音すら聞こえない広場で、男は立ち止まった。


「俺はルジ・ウーベルデン。この子はリア。君は?」


「え、あの、わたしは……ラスピス」


 神だと思っていた者から名を問われて、困惑してしまった。


「ラスピス――赤か」


 赤い髪が疎ましいからと、お母さんにつけられた名だ。


「俺は、君の髪の色は、とてもきれいで、好きだよ」


 わたしも、この髪の色は、好きだ。母が嫌いだと言おうと、あまりにも抜かれるので毛が薄くなってしまっても、可愛いし、かっこいいし、きれいだと思うから。


「あ、ありがとうございます。……戦争を、赤が無駄になる世界を、終わらせてくれて」


 そうわたしがお礼を言うと、男は、寂しそうに、笑った。


「始まってしまったものは、そう簡単には止められないよ」


「え――?」


 それでもわたしは、あの光景を確かに見た。


「さ、君も早く戻った方がいい。今なら、家に帰れるだろうから」


 ふわふわとした足取りで、家に向かおうとして、これだけは言っておきたいと、振り返り、叫んだ。


「わたしは、世界を、音楽で平和にする!」


 そう叫ぶと、ルジはやんわりと笑みを浮かべて、わたしの頭を撫でた。


「そのフルートを吹き続けていれば、いつかきっと。――きっと、戦争を終わらせられるよ」


 ルジは、そんな言葉をわたしに残した。

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