第38話 フルート-2

 眼下には、ヘントセレナの街並みが広がっていた。建物はほとんどが地下に建てられている。


 それは、土の中の方が暖かいからだそうだが、わたしは、地下の方が薄暗く寒いような気がしていた。


 実際には、日の光を集めたり、土の保温効果を活かしたり、冷たい風が入りにくいようにしたりと、いろいろな工夫がされているので、どちらかといえば、気持ちの問題だ。


 ――だから、初めて見るヘントセレナの全貌は。


「赤が、ない」


 地下の家は、光と熱を集めるための広く黒い入口と、熱を集め寒気を遮断する黒い扉が設けられた質素なもので、上から見ればただの穴凹だ。


 正直、期待していた。けれど、ひと目で、赤はここにはないのだと分からされて、裏切られた。


「……」


 こんなに、川が赤いのに。植物は全部、緑だ。


 もしかしたら、山の上さえも赤い植物はすべて、とうの昔に枯らされてしまったのかもしれない。それくらいのこと、あの国の住民なら、喜んでするだろう。


 いつか、赤色が見えなくなってしまうんじゃないか。いや、もう見えない人もいるんじゃないだろうか。


 そういう人がきっと、自分の血は緑色だとか言って、自分は穢らわしいものから解放されたとかいう気味の悪いことを言い出すのだ。


 悲しさで動けなくて。だから、持ってきたフルートを、吹く。


 ――トー……。


 音楽にだって色はある。みんなが見えないと言っても、わたしは感じる。


 現にわたしは、このフルートを持ってから、赤い曲しか吹いていない。だから、この銀のフルートも、いつしか、赤く染まっていった。わたしだけがそう見える。



 暗いどろっとした赤を奏でていると、ヘントセレナの国境付近に人間が集まっていくのが見えた。



 尋常ではない様子だ。


 虫の知らせとでもいうべきか。帰らなければならないと、直感した。


 来た山道を急いで、駆け下りる。どうやら、集まってきたのは人間だけではないらしい。


 赤い目の魔族――そうだ。国境の外は、人間の領地ではない。砂漠に魔族がいると噂には聞いていたが、まさか本当だったとは。


 この目で見るまで、どこか、半信半疑だった。生まれてから一度も魔族を見たことがなかったから。


 岩陰に隠れて、様子をうかがう。


 緑の外套を纏った軍団は、相対する軍勢の赤い外套を映していた。瞳の色は人間であるから当然、それぞれに異なっている。


 赤い軍勢の瞳が緑に染まっているかどうかはここからは見えないが、きっと皆、同じ色を――赤い目をしているのだろう。


「リアイ、ウスェカ!」


「プラーマ、ヤドゥチャール!」


 緑の若い女と、赤の中年男。


 超高速の氷の刃と、毒付きの炎。どちらが先に放たれただろうか――きっと、同時だった。


 それを皮切りに魔法合戦は始まってしまった。


 数多の犠牲を見て、血が赤いのは最初だけなのだと、初めて知った。流れ出た血は、時間とともに黒くなるのだ。


 始まってしまった。わたしの大嫌いな戦争が。




 世界で一番、赤が無駄になり、赤が減っていく、戦争が。




 ぎゅっと、固く握る手の痛さにようやく気づく。愛用のフルートを、手のひらに跡がくっきりつくくらい、握っていたらしい。



 そのとき、はっとする。



 もしかしたら、わたしはこのときのために、フルートを吹いてきたんじゃないだろうか。


 ――この、赤いフルートなら、戦争を、止められるのではないか。母を笑顔にできる、このフルートなら。


 愛用している赤のフルートを手に取り、口を運びかけて、カタカタと音がするのに気がつく。震えているのだ。わたしの手が。


 人の死が、こんなにも、目の前にある。


 火種がくすぶっているのは、わたしのように魔法が使えない子どもでも知っていることだった。




 ヘントセレナで起こったことではないが、それは、実際にあった話。


 かつて、人間は自分たちより体力のある魔族を地下に幽閉し、奴隷としてこき使って湯水のごとく消費した。


 魔族は人間を海外に売るべく、船にぎゅうぎゅうに押し込め――その船は、海の底に沈んだ。




 わたしは、震えていた。息がいつもの調子を取り戻せない。誰よりも信じていたはずだ。音楽の力を。自分の力を。


 それなのに。今、このとき、この瞬間、というときに、何もできない。


 肉が潰れ、骨が砕け、赤が飛び散る。生々しい音。鉄さびのにおいが、嗅覚を麻痺させる。視界を満たす赤は、耳鳴りがするほどにおぞましい。


 手には汗が滲み、震える手から、フルートが滑り落ちた。はっとして拾い上げ、傷ができていないかすぐに確認する。


 そのとき、視界に、影が差す。地上ではこんなにも酷いことが行われているのに、真っ赤な太陽は容赦なく輝いていた。


 だってこちらは、魔族の領土で、わたしは人間だ。


 ――逃げないと。


 けれど、見上げる勇気も、無謀にも逃げ出す勇気も、それどころか、戦場に音楽を響かせる勇気すら、わたしにはなかった。


 それでも、ここにフルートがあったから。握りしめて。せめて、この手の中の楽器だけは守らないとと、縮こまった。


 このとき、フルートは、わたしの命よりも大事なものだった。


 その想いが、わたしを突き動かそうとし、そして。


「それで今、何をしようとした」


「え?」


 男の声だった。足元には灰色のネコがいて、人懐こくすり寄ってきた。その愛らしさに、多少なり緊張が和らぐのを感じた。


「――戦争を、止めようとしたのか。音楽で」


 その問いかけに、わたしはネコの綺麗な色の瞳――確か、紫という色だったと思う――を見つめたまま、こくりと、頷いた。



 流れる沈黙に、恐る恐る見上げると、そこには、右目だけを開けた男が立っていた。


「空みたいで……きれい」


 その瞳の色は、真っ青だった。赤でない色をきれいだと感じたのは、この時が最初で最後だった。

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