第37話 フルート-1
むかしむかし、ここヘントセレナ共和国で、水を巡る争いが起きました。
砂漠に住む魔族たちは人間に、水を分けてほしいとお願いしたのですが、分けてもらえなかったのです。
そうして始まった、魔族と人間の民族戦争は人間が勝利し、魔族たちは故郷を追われてしまいました。
それから二十数年が経ったある日。世界ができて千年目のその日、「魔法降天」と呼ばれる大混乱が世界を包み込みました。
それまでは一部の限られた者だけが使えるとされていた魔法を、「八歳以上の全員」が平等に使えるようになったのです。
魔法は、奇襲。無から有を生み出す力。そして、その力の強弱は――才能に依存する。
虐げられてきた人々によって各地で反乱が起こり、いくつもの革命、政変によって、世界はぐちゃぐちゃになってしまいました。
しかし、ヘントセレナ共和国では、大きな争いは起きませんでした。
もともと、魔族を虐げることで、人間と魔族の住み分けがなされていたから?
違う、そうじゃない。
さて、問題です。なぜでしょう?
せーかいは――この国には、世界一の科学者がいるから。
***
わたしのお母さんは、魔族を毛嫌いしていた。
特に理由はない。ただ、嫌いだから嫌いという、実に単純で、実に、なんともしようがないものだった。
お母さんは、苛立っているとき、わたしの髪を何本か鷲づかみにして、ブチッと、引き抜いた。自分で引き抜いておいて、穢らわしいとか、手が汚れたとか言った。
お母さんは、偉い人だった。
厳密に言うと、共和国であるヘントセレナは東、西、砂漠の三つに分かれていて、東西間の物流を砂漠の魔族たちが担ってくれている。
東ヘントセレナ、西ヘントセレナと呼ばれるのに対して、砂漠ヘントセレナ、とは呼ばず、砂の魔国領と呼ぶ。
お母さんは、東ヘントセレナの中の自治区の一つ、西地区代表だった。東なのか西なのかややこしいといつも思う。
そしてこの西地区が、ヘントセレナ自治区の中で最も大きな権力を持ち、選挙で決まるはずの首相はほぼ毎回、西地区代表が担うことになっていた。
西地区代表という言葉には、その実、「悪しき魔族を撲滅するための」という枕詞がついている。要はみんな、魔族を撲滅したがっているのだろう。
ところで、わたしには、お父さんの記憶がなかった。お母さんからお父さんの話を聞いたことも一度もなかった。
お母さんは魔族を国で一番、恨んでいたから、一度だけ、魔族がお父さんを殺したのかと尋ねてみた。
――するとお母さんは、烈火のごとく怒っては、わたしの髪の毛を、全部抜くんじゃないかという勢いで、引っ張った。痛くて、痛くて。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もう聞きません、聞きませんから……!痛い、痛いの、やめてください!ごめんなさい!」
それ以来、その話を聞こうという気は起きなかったけれど、恐らくそうなのだろうとは分かった。
お母さんの言うことが正しい。お母さんの言うことがすべて。――そう思い込む以外に、生き抜く術を持たなかった。
たった一つだけ、お母さんを喜ばせる方法があった。
――銀のフルート。
緑髪に緑の目をした、雰囲気がカッコいいお兄さんに勧められて、母が購入したものだ。ただ、自分で吹こうとはせず、わたしに吹いてみろというので、やってみた。
上手くできなければまた、髪を抜かれる。それが怖かったから、必死だった。
きっと、それなりに吹けてしまったのだろう。
母は興味なさげだったが、周りからすごいすごいと褒められるわたしを見て、悪い気はしなかったらしい。
それ以来、わたしがフルートを吹くときだけ、母はわたしに微笑むようになった。間違えた、と思っても母にはそれが分からないようで、それらしく誤魔化せば叱られることもなかった。
わたしは、フルートが好きになった。この子と一緒なら、大丈夫だと、そう思えたのだ。
――あの日までは。
***
わたしは、赤色が好きだった。それと同時に、母が赤を毛嫌いしていることも知っていた。国中の赤い葉の植物が切り倒され、赤い実のなる木はすべて枯らされた。
八歳になったその日、初めて、一人で国の外に出た。母は西地区と東地区の合同会議で泊まり込みの出張に行っていた。
国の外には赤い川が流れていると聞く。それを一目見たい一心だった。母には留守番を命じられていたので、当然、内緒だった。
ラスピス山に登り、川の音を聞いて水源を目指した。道中で適当な植物を拾い、国に戻るときの言い訳を作った。
川を見つけたとき、その赤さに、目を奪われた。
「綺麗――いちごの川みたい」
登れば登るほどに、その川は赤みを増していった。
いちごを食べたことはなかった。赤いものを口にしてはいけないという、母の教えだった。曰く、赤いものを食べると、魔族になってしまうのだという。
しかし、絵本に載っているいちごの絵に、そんなことは一つも書いていなかった。まあ、その絵も母に見つかると、赤い部分をすべて黒く塗り潰させられて、その時以来、じっくり見たことはないのだが。
だから、わたしは少し、迷った。
迷ったけれど。少し早めの反抗期とでも言おうか。母から離れたことにより、反発したい気持ちが膨れ上がって、止められないほどになっていた。
だから、その川の水をすくって飲んでみることにした。
「え?」
しかし、わたしが手を差し入れた瞬間、川は一面、透明になってしまった。どんどん広がる透明が恐ろしくなって、わたしは川から手を引いた。
手を引けば、川上から流れる赤と混じり、川に浮かぶ透明の斑はすぐになくなった。けれど、何度試しても、赤い水を赤いまま飲んでみることは叶わなかった。
「どうして――」
流れる涙も透明だ。
この身に流れる血は確かに、赤いのに。どうして赤だけがこんなにも、手に入れられないものなのかと。
目の前にあるからこそ、手に入らないのが悔しかった。すぐそこにあるのに。
この川の水はヘントセレナに繋がっているはずなのに、赤であることを今まで知らなかった。
――だから、国の川の水は飲んではならないのだと、このときに知った。
もっと上流へ行けば、と考えて、行っても無駄だということは、あの拒絶とも言えるような透明を見て、分かりきっていた。
けれど、ここで、うじうじしていても、仕方ない。母にも、ずっと泣いているとさらに怒られる。目の周りが赤くなって魔族になると言われてしまう。
山には他にも、赤いものがあるはずだ。ぱっと見は緑とか白っぽい茶色が目立つけれど、木の実であれば赤いものもあるだろう。現に、いちごやりんごは、赤い実として知られているのだから。
慣れない山道に、足を取られたり、枝に引っ掛けたりして、結構な傷だらけになってしまった。
けれど、血――赤色さえ隠せていれば、母が何も言わないのは知っていた。包帯さえまけば、どうとでもなる。今の痛みよりも、母の逆鱗に触れないことの方が、そして今、赤を見つけることの方が、大事だった。
そうして、赤を見つけられないまま、誘われるようにしてたどり着いた山の上で、わたしは、絶望を目にした。
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