第8話 読書

「そんなことより!な、名前はっ!?」


「――ムーテ」


「ムーテは、どうしたら手に入る!?」


 二人の間に重大な齟齬が生じている。少女――恐らく、ムーテというのだろう――は、表情こそ変えないものの、黄色の瞳の中心にあるりんごのような、八分音符のような模様をくるんと回す。


「名前は?」


「え……あ。オレは、トーリス」


「わたしはムーテ」


 齟齬に気づいたらしいトーリが、頭巾フードを引っ張って、忙しなく頭を右往左往させる。隠れていて見えないが、きっと、耳まで真っ赤になっていることだろう。微笑ましい。


「僕はレイノン。こっちはルジ」


「ルジだよー」


 二人の間にレイが割り込み、ついでに俺の紹介までしてくれる。はきはきとした声からはいらだちを感じる。きっと、トーリと他の子が話しているのが気に入らないのだろう。


「その楽器、なんて名前なの?」


 トーリが本当に聞きたかったことを、レイが代弁して聞く。


「この子はバイオリン」


「その……バイオリンは、どこで手に入るんだ」


 トーリから、どうしても手に入れたいという強い気持ちが伝わってくる。トーリがこんなに何かを欲しがるのは初めてだ。


「どこでも手に入らないよ。だって、わたしが作った楽器だから」


「作ったっ、それを?」


「うん」


 トーリの驚きは、ムーテには慣れた反応だったらしい。今、彼女の手の中にしかない楽器だと言われれば、誰だって驚くに決まっている。


「――オレに、バイオリンの作り方を教えてくれないか」


 ムーテの黄色い瞳の中のりんごがくるんと回る。


 見たところ、バイオリン自体に珍しい素材は使われていなさそうだ。それどころか、魔法すらも使われていないため、トーリでも作れなくはないだろう。


「わたしはいいよ。でも、どんなにがんばっても、半年はかかると思う。――そんなに欲しいなら、もう一つ作るよ」


「いや、いい。オレが自分で作りたいんだ」


 黄色の瞳が俺を捉えると同時に、頭巾フードが振り返って、俺の右目を見上げる。


「ルジ――」


 切実さが伝わってくる目で、言葉ではなく視線で訴えてくる。子どもってやつは、どうしてこうもお願いが上手なのだろう。


「ルジ、僕からもお願い」


 そこにレイも加わって、お願い光線が二つに増えてしまった。くっ、屈しそう……。ちらとムーテに視線を移せば、楽しそうに微笑んでいるだけだった。


「今すぐには結論は出せない。ちょっと考えさせてくれ」


 残念ながら、俺にも人の心は残っているから、できるだけ二人のお願いは聞いてやりたい。まあ……だめなときはだめと言うけど。


***


 ルジがリアと相談しているのを尻目に、オレは焚き火の前でレイと並んで木にもたれかかり本を読んでいた。


「何読んでるの?」


 すると、背後からキラキラと光る音がやってきて、話しかけられる。ムーテだ。


 旅の中でこれまで色んな人に出会ったが、ムーテの音はその誰よりも、綺麗だ。バイオリンはもちろんだが、その人の生きる音というのがあって、オレにはムーテが輝いて見える。


 見とれてしまいそうなほどの輝きから意識をそらし、レイを横目で見やる。


 正直、来客中に本を読むのは自分でもどうかと思うが、何を話せばいいか分からない。そこはレイが上手だから任せておけばいいと、思っていたのだが。


 他の子ども相手だと、いつもはもっと会話を弾ませているのに、今日はオレと並んで本を読んでいる。どうしたことか。


 ムーテの、何を読んでいるのかという質問にも、いつもならレイが答えてくれるのに、今日は答えてくれる気配がない。オレが答えたって答えは一つしかないのだから、別に困ることはないのだが、不思議だ。


「メルワート著、魔力循環説だ」


「へー。読み終わったら、私にも貸して?」


 世の大半の子どもはこんな本に興味がない。人間も魔族も関係なく。だから、そう言われたことに対して素直に驚き、顔を上げそうになって――レイに頭巾フードを被せられる。


 危なかった……。


 先ほどからレイがオレの頭を叩くのは、別にいじめられているとか、戯れが過ぎるとか、そういうわけではない。


 ぱちりと、レイの黒瞳と目が合えば、それだけで何を言いたいかはすぐに分かる。



『トーリが魔族だってことは、人間のムーテには内緒だからね』



 そんなところだ。顔を見れば魔族か人間かなんてことはすぐに分かってしまう。


 ――瞳の色だ。


 赤い瞳は魔族の象徴。だからこそ、オレはムーテの顔を見ないよう、深く頭巾フードを被っているし、危ないときはレイが顔を隠してくれている。


 人間と魔族は敵対関係にあることが多く、できれば、オレの正体は知られない方がいい。



「魔法科学に興味があるのか?」


「ううん。よく知らない」


「なんだそれ」


「でも、そんなに集中して読んでるってことは、面白いのかなって」


 きっと、オレたちが読んでいるからと、期待をさせてしまったのだろう。裏切ることが分かりきっている期待であれば、先に否定しておいた方がいい。


「オレは変なやつだから、オレにとって面白いものでも、ムーテには面白くないと思う」


「その理屈だと僕も変なやつになるけど?」


「何かおかしかったか?」


「つまり……トーリと一緒、ってコト!?」


 どういう思考回路をしているんだ。双子なのに、さっぱり分からん。


 するとムーテが、


「面白いかどうかはわたしが決めるよ」


 と言ったその声も、輝いていた。


 それもそうだと思い直す。これまでの大勢がそうだったからと言って、ムーテもそうだと決めつけるのは早計だ。


「じゃあ、少し読んでみるか?レイ、ちょっと貸すぞ」


「ういー」


 ムーテはお礼を言って本を引き上げると、栞の代わりに指を挟み、最初の頁へと戻る。黄色の瞳に揺れる焚き火を映し、じっと本を見つめるムーテの表情はぴくりとも動かない。


「面白いって顔はしてないな」


「そうだね。多分、わたしにはこの本を読むための予備知識が足りないんだと思う。とーりすが持ってる本で魔力の循環に関する本を、何冊か貸してくれたら、読めるようになるよ」


 確かに、何も知らずに読んだところで、理解できないのは当然だ。それは、水を知らぬまま雨を語るようなものだから。


 最初に読むのだから、できる限り分かりやすい本がいいだろう。が、オレにはどれが分かりやすいのかが分からない。


 背嚢リュックサックの中にある本を風呂敷に並べて比べてみるが、果たして、どれを選べばいいのやら。


「レイはどの本がいいと思う?」


「んーとね。この辺かなー」


 三冊の本をレイはすぐに選んで、ムーテに渡す。薄くて、絵が多くて、題名も理解しやすいものが三つ。さすがレイ、頼りになる。


「ありがとう、れいのん。読んでおくね」


「――どういたしまして」


 レイはふんわりと笑った。そんな柔らかい表情はこれまで見たことがなかったから、思わずまじまじと見てしまった。


 読んでいた本を返してもらい、レイが選んだ三冊を渡す。ムーテの指栞を頼りにレイが本を開いて再び、二人で読み始めようとすると、途端に強い風が吹いて、頁がいくつかめくれてしまった。


「ありゃりゃ。どこまで読んだっけ」


 レイから渡された本をめくり、確かこの辺りだったと、開く。


 少し読み進めていくと、どうにも、ここよりもう少し先まで読んでいたなと、思い出してきた。


 が、頭巾フード越しに覗き見たレイの伏せたまつげを見て、なんとなく、何も言えなかった。


 その横顔は、何か、別の物思いに耽っているようにも見えたし、真剣なようにも見えた。


 だからオレは静かに数頁分、記憶をなぞることにした。


 今はこうしていても、いつかは、レイと離れる日が来るのだろうと、考えながら。

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