第90話 前世界線 2026年初夏
僕の小さな頃の記憶は、転校に次ぐ転校。大学に入学するまで1年と同じ場所にいなかった。友達ができてもすぐお別れ。でもすぐに人の輪に入れる技術が備わった。そのお陰で本当にたくさんの友達がいる。上辺だけであるならば……
転校しても馬鹿にされないように勉強だけは頑張った。そうすればパパも褒めてくれると思ったから。でもパパは忙しい人だ。滅多に家に帰らなかったし、どんなに成績が優秀でも褒めてはくれなかった。僕はパパなりの激励だと思うようにした。
僕が自分だけの喜びを見つけたのは大学生の時。告白されて付き合った彼女。彼女を支配しコントロールすることを知った僕は天命を受けたかのような快感を味わった。
若い娘を僕の言葉で支配する。僕にとって教師とはまさに天職だと思った。
しかし、そんな幸せも続かなかった。
吉沢瑞穂……彼女は僕のおもちゃとして本当に優秀だった。それなのに、あんなことになるなんて……飼い犬に噛まれた気分とはこのことを言うのだろう。
その後の20年、まさに泥水をすするような人生だった。
仕事を失い、パパからの信用も失い、見限られ……
パパのあの時の目、忘れることはできない
何度も、それこそ数え切れないくらい、僕は死のうと思った。
でも、死を覚悟した時に、必ずよぎるんだ。吉沢の顔が……
だから吉沢瑞穂への憎しみを糧にガムシャラに働いてきた。
残ったのは高校生の時の吉沢瑞穂との情事が映った映像。何度も何度も繰り返し見た。いつしか僕は憎くてたまらない彼女のことを愛してしまったかのような錯覚に陥った。
そして、奇跡が起きた。
まさか異動先で、しかも僕の部下という立場で合間見えることになるなんて!
この憎くて愛おしくて堪らない女を、またメチャクチャにしてやろう。絶望や恐怖、怒りが混ざったあの表情、あれがもう一度見たい……!!
手始めに、旦那との関係を壊す。
そう思っていたけど元々関係は壊れかけていた。もうひと押し。
僕のパパは大手運輸会社の取締役で、政治家とも関わりがあった。その伝手でパパ自身も10年ほど前に市議会議員に立候補して当選した。当選した当初は僕のことを理由に叩かれたこともあったみたいだけど、金と力でねじ伏せて騒ぎはすぐに収まった。
そんなパパももう80近い。明らかなパワーダウンを感じる。僕の信頼も少しは取り戻せたし、最後に議員としての力を使ってもらい、瑞穂の旦那の勤め先である市役所の人事に口出ししてもらった。相当辛辣な情報も上乗せしたから、旦那の上司も厳しく当たるだろうな。
次は娘だ。始めは誘拐でもしてやろうかと思ったけど、リスクが大きすぎる。金で雇った馬鹿な学生を使ってバレバレな尾行や車での追いかけっこをしてもらっていた。
それがまぁ、なんと……今回、孫請けで雇ったという学生は本当に馬鹿だった。
「依知佳が……事故……」
その日、瑞穂にかかってきた電話は、娘の事故を知らせる内容だった。無事なのかどうかは電話では分からないらしい。
「どうしよう!私、どうしよう!」
「落ち着くんだ。まずは旦那に連絡したらどうだい?それから病院に向かうんだ」
素直に僕の言うことを聞く。
堪らないな……
正直、娘がどうなってようと僕にはどうだっていい。むしろいなくなってくれた方がこの女をコントロールしやすくなる。
「翔ちゃん……なんで出ないの……」
「仕事中なら難しいかもしれない。職場に直接かけたほうな早いと思うよ」
彼女は頷き、電話をかけるが思うように取り次いでもらえなかったようだ。
「これで分かったろ?君を支えてあげられるのはもう僕しかいない。僕なら君にこんな思いはさせない!もう、はっきりさせようじゃないか……」
「こんな時にやめてよ!」
「いいや、やめないよ。娘さんのためにもね……僕は一旦、自宅に帰る。待っているから……何時になっても……」
いい。いいぞ、その表情……
それが見たかった!
*
病院について、集中治療室の前で娘の処置を待つ。
依知佳が痛い思いをしていたというのに、私は、私は……!
その後、旦那が来て、病院からの説明がいろいろとあったけど、まったく頭に入らなかった
事故があった翌日、病室に行くと、依知佳の意識は戻ったようで、ベッドから身体を起こして座っていた。
罪悪感に押しつぶされそうで、私は依知佳に近づくことも、視界に入れることさえもできなかった。
もう、ダメだ
やはり
今夜、
すべてを終わらせよう
夫に別れを告げた。
こんな適当な嘘、信じてもらえるなんて思ってない。
それに、後のことは、すべて夫に任せる形になってしまう
でも
私が責任を取らなきゃ……
翔ちゃん、
何も話せなくてごめんなさい
あなたと出会えて本当に良かった
依知佳こと、お願いね
依知佳……
ダメなママで
ごめんね
ずっと、大好きだよ――
*
彼女が去り彼女の家は静寂に包まれた。
一緒について行くと散々言ったのが、彼女は強く拒んだ。間男なんかには付き添ってもらいたくないか……
クククッ
「あーはっはっは!」
気持ちが良い!最高に気持ちが良い!
あとはあの旦那、佐伯がいなくなればもっと話が早いんだがなぁ。それは高望みし過ぎか。
不倫相手の家で寝取り、冷蔵庫を開けて酒を飲む。なんて気分が良いんだ。
陽が落ちかけていて、空は不気味なグラデーションを色取っていた。
そろそろ帰らねば。
彼女はきっと僕のところへ戻って来る。
玄関ドアの鍵を閉めた時だった……
7階通路をフラフラとこちらに歩いてくる男を見つけた。
視点も定まっていない様子で、通路の縁に倒れるように寄りかかってしまった。
「あれは……佐伯か……?」
さっき、彼らの寝室で見たいくつかの家族写真。間違いない。
佐伯は縁に乗り出すように倒れ掛かり、今にも落ちそうな体勢になっていた。
……あのまま、両足を少し上げてやれば本当に落ちるんじゃないか……?
あいつがいなくなれば……いなくなれば……!
悪魔が僕に囁いた――
【お読みくださりありがとうございます。次回最終話となります。よろしくお願いします。】
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