第75話 冬の嵐
――
世の中には、2種類の人間が存在する。
持つ者と持たざる者だ。
私は当然、持たざる者。
これ以上、何も奪われたくはないから、何も持たないようにしていた。
期待も、夢も、希望も。
その行為が不適切だと感じたのは私が小学5年生の頃。
クラスメイトが話す父親像が私の父親とはまるで違っていたからだ。
普通の父親は必要以上に身体に触ったり、一緒に入浴したり、ましてや、性的なことを娘に要求することはないという……
今なら分かる。あれは虐待。
私は実の父から虐待を受けていた……
一度、拒否したことがあった。もうやめてと。
そうしたら……
「なぜ分からない!父さんは真央のことをこんなにも愛しているというのに!」
愛しているという言葉は、あらゆる罪の免罪符になるとでも言わんばかりに、父は私を叩いた。お前がそうさせているのだと……
母は見て見ぬ振りだ。自分に火の粉が降りかからないよう、必死に妻を演じていた。
そして、文化祭のあの日……
私を庇って火傷を負った黛先生。
先生は、私を責めるどころか、私を気遣い、慰めてくれた。そして、私の心に棲む闇まで見抜いてみせた。
驚いたことに、先生との関係が始まってから、父からの暴力はパタリと止んでしまった。
事情を知っているのは先生だけ……
ある時、先生に対し、私の父に何かしたのかと聞いたけど、先生は笑顔で
「何もなくなったなら、それでいいじゃないか」
と流されてしまった。
私だけに向けられた、大人の男の人の優しさ……
甘美だった。逃れられないと思った。
もっと、もっと欲しいと願った。
それが、私が私でいられる唯一の手段なのだから……
*
「グスンッ、スン、スン……」
永瀬さんの鼻をすする音だけが教室に響く。
涙を拭う永瀬さんを、峰岸さんがそっと抱きしめてあげた。
「ごめん……2人とも……俺の、ミスだ……」
「それは違うよ佐伯……和泉さんがあんなふうだなんて、誰も予想してなかった……」
そうかもしれない。でも、俺は、傲慢だった。
勝手に決めつけて、救ってやるから協力してくれだなんて。心のどこかで少なからずそういった思いはあった。
俺はこのやるせ無い感情を知っている。
それは役所で働いていた時に、嫌と言うほど味わった。
これまで築いていた仕事が誰かの思いつきで一瞬で崩れた時。
努力して結んだ信頼が一つのミスで無に帰した時。
そして……
瑞穂が事故にあったあの時……
お前がやっていたこと無駄だったんだと、見えない拳で思い切り殴られたような、あの絶望感。
役立たずだと思われたく無い――
嫌われたくない――
そう思う一心で、人は何重もの心の防壁を作る。
その壁が壊された時、人は心の病に罹ったり、最悪自死を選ぶこともある……
さまざまな心の防壁があるけど、和泉さんの場合も壁が壊され尽くされ、自分を守るために黛にすがるしかなかったのだろう。
黛を追い詰める策は振り出しに戻った。
また一から考え直しだ。
虚無感を抱えたまま、俺たちは教室を出た。
俺はいい。慣れているわけじゃないけど、気持ちに折り合いをつけることは過去(未来?)の経験からその術を知っている。
しかし、永瀬さんと峰岸さんは違う。
時々忘れそうになるけど彼女たちはまだ17歳の子供なんだ。
「なぁ、2人とも……」
廊下で、振り返り、俺の後ろを歩く2人に問いかける。
「この件、一旦、俺が預かるよ」
「佐伯……これからどうするの?」
未だショックから戻れない永瀬さんを支えながら峰岸さんが答えた。
「少し、ひとりで考えたいんだ……ごめん……」
そう言って、俺は峰岸さんの反応を待たずにその場を去った。
ひとりで考えたいんだと言っても、特に何をするのかなんて今は分からない。
放っておいてほしいという和泉さんの願いを突き通すならば、黛を追い込むことなんかできないだろう。下手に動いて和泉さんから俺たちの動向を黛に知らされてしまったら、瑞穂だけでなく、永瀬さんと峰岸さんにも危害が及ぶ可能性がある。
どうする……
このまま野放しにしていたら、せっかく未来で依知佳に会えたとしても、再び黛に壊されてしまう……
気付けば俺は市立病院に来ていた。習慣て本当怖い。
瑞穂が眠る個室に入る。
姫は変わらず物を言わない。
ベット脇の丸椅子に腰を掛けて、白く細い手を両手で包んだ。
冷たい俺の両手にびっくりして目を覚ましたりして……
そんなこと、あるわけもなく。
「声を……聞かせてくれよ、瑞穂……」
あれだけ憎んでいた時期もあったのに、今は瑞穂の声が聞きたくてたまらない。
俺も瑞穂にすがるしかないのだろうな。
この無口な少女に……
そして、何も方策が浮かばないまま、数日がたった――
*
その日は土曜日で、朝から雨が降っていた。
風も強なり、冬では珍しく天気が荒れ狂っていた。
そんな状況でも俺は相変わらず病院に来ていて、瑞穂が眠るベッドの横でただ座っていた。
今日はなんだか、本を読んだり話しかけたりする気分にはなれない……
瑞穂は相変わらずだ。特に何が変わるわけでもない。自発的に呼吸はできているし、顔色も悪くない。
いつまでこんな状況が続くんだろう……
黛に対して有効な手が何も打てていないこともそう。
疑っているわけではないけど、またいつものように取り留めも無い不安が浮かんできた。
外は嵐、いつかのように遠雷が聞こえている。
その時、ふと思った。
前に、ユキノ先輩が言ってた。
「雷がタイムリープのトリガー……」
根拠は皆無だ。
でも、もし、それが上手くいけば、また去年の春からやり直せる……?
どうだろう……やってみる価値はあるか……
*
私は前世界線で若い頃に体調崩して大変な目にあったから、定期的に病院には行くようにしている。
今日は土曜日だし、午前診療を済まして会計を待っていた。
「あら?ショウタロくんじゃん」
ロビーの横の通路をフラフラと夢遊病者みたいに歩いていくショウタロくんを発見。
そうか、瑞穂ちゃんて、市立病院に入院してるんだっけ。
それにしても、ショウタロくんはこの嵐の中、傘もささずに外に出て行ってしまったぞ。
どう見ても様子がおかしい……
あたしはショウタロくんの後を追いかけた。
*
雷って高い場所に落ちるんだっけ?
ということは高い木にも落ちるってことだよな。
ゴロゴロと唸る雷鳴は確実に近づいていた。俺は、病院の敷地内にある、高い植樹の前にやって来た。
稲光がして、あたりを真っ白に染めた。
間髪入れず、
ドガーン!!
落ちたか……近いな……
次はこの木に落ちてくれるといいんだけど……
ビカビカッ!!
近くに落ちるかな、と思った瞬間
「何してるのッ!!」
突然
ガッと肩を掴まれた
「……ユキノ先輩?」
ずぶ濡れのユキノ先輩がそこにいた。
「だって……ユキノ先輩じゃん……雷がタイムリープのトリガーだって言ったの……」
「バカか!何の確証もないって言ったよな?!」
「でも、でも、こうするしか方法が思い浮かばないんだ……」
そうなんだよ。また時間を遡って、それで、それで……
どうするだっけ……?
「瑞穂ちゃん守るじゃないのかよ!目ェ覚せよ!翔太郎!!」
またピカッ!とフラッシュがたかれたように稲光が俺たちを照らした。
ゴーゴーと風が鳴る音と、叩きつける雨の音が、俺たち以外の世界を遮断しているようだった。
……その頬を流れるのは雨なのか涙なのか。
いつもは緩みきった顔をしているその表情は、険しく俺を睨みつけ強い口調で、そうユキノ先輩は言った……
「分からないじゃないですか……また奇跡が起こるかもしれない……」
「奇跡なんかそう何度も起こされちゃ困るんだよ!あたしたちは生きてるだろ!今まさに!ここで!」
生きてるよ。
生きてるからこんなに辛いんじゃないか。
みんなだってそうだろ?
俺は顔が上げられず、ただ、流ゆく雨の道を眺めていた。
「……もう、いい……あたしが何とかする」
「……?」
「あたしが直接、黛に接触してみる」
その意味が理解できた時、混乱と同時に大きな焦りが襲って来た。
「そんなの……ダメに決まってるじゃないですか!」
「……少なくとも黛よりは倍の経験値があるんだから。お姉さんに任せてみなさい」
何言ってるんだこの人……
自分で言ってること分かってんのか?
「ちょ、ちょっと待って……」
「いいから!今日はもう帰るわよ。あたしが送ってく」
有無を言わせず、ユキノ先輩は俺の腕を掴み駐車場に引っ張っていった……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます