第2話 痛み
「すみません、市立病院まで、大至急!」
息を切られてタクシーに飛び乗った俺は、勢いのまま運転手にそう叫んだ。
ここからだと、渋滞に巻き込まなければ40分ほどで着くだろう。
もどかしい……
タクシーの中でスマホを確認した。瑞穂からのLINEも画面をスクロールするほど来ていた。LINEの内容から依知佳の容態が少し分かってきた。
意識はない、頭を打った、身体中に打撲痕と数カ所の骨折。
愕然とした。でも未だに信じられずにいた。
早く会いたい。会って確かめたい。
「神様……」
滅多に拝むことない名前を呟いていた。
*
病院に着く頃には診療時間が終わったからなのか、患者などの来院客はまばらだった。
受付で案内された処置室まで行くと部屋の前で瑞穂が座っていた。両手で顔を覆い、ピクリとも動かない。
救急隊の人や警察官なんかもいて、何やら打ち合わせをしているみたいだった。
「瑞穂!」
ハッと顔を上げて瑞穂は俺の方に振り向いた。俺の腕にしがみつくと、静かに泣き始めた。
「依知佳の容態は?……泣いてちゃ分からないだろう」
俺は極力声のトーンを抑えて優しく聞いたが、瑞穂は泣くだけで何も返事はしなかった。
嘘だろ……そんな……まさか……
最悪な結末が脳裏に浮かぶ。すると、ドクターが処置室から出て来た。俺は瑞穂を座らせ、震える手を押さえながらドクターに声を掛けた。
「あの……先生、娘の容態は……」
声が震えていた。
「ああ、佐伯依知佳さんのお父さんですか?命に別状はありませんよ。意識は無いですが今は安定しています」
「あ……」
膝から下が無くなったかのように、俺はその場に崩れ落ちた。
「よ、良かった……」
安堵とともにこれまでの緊張の糸が切れたのか、ボロボロ涙が溢れてきた。
それからどれだけの時間が過ぎたのか。5分か30分か1時間以上か。時間の感覚がまったく無くなっていた。
ひとしきり落ち着いたので、俺は近くにいた警察官に話を聞くことにした。
どうやら依知佳は下校の途中だったらしい。いつもは沙耶香ちゃんと一緒だが、その日はたまたま一人で帰っていたようで、目撃者によると依知佳はしっかり横断歩道を渡っていたのだが、右折してきた車に巻き込まれる形で轢かれたのだという。
加害者は結構なスピードだったようで、依知佳に接触した後、一時止まる様子を見せたのだが、その後依知佳を救護せずにすぐ去ってしまったらしい。
人通りも多い交差点だったので、周りの通行者が動画を撮っていたみたいだし、対向車のドライブレコーダー等の情報提供があれば加害者の特定はできるかもしれないとのことだった。
しかし、今は加害者のことなんかどうだっていい。依知佳が生きてくれていたことに、ただただ感謝するしかなかった。
今日は救急救命室での入院となるが、明日には一般病棟に移れるかもしないと看護師さんから聞いた。その後、入院の手続きやら保険の手続きやらで、時間は夜の9時を回っていた。
瑞穂は終始俯いたままで、無言を貫き通した。
ショックだったのは分かる。だけど母親なのだから、看護師さんや病院の相談員さんの問いかけぐらい返事をして欲しい。
そして俺たちは一言も話すことなく帰路に着いた。家に帰って来てもやはり瑞穂は沈黙したままだった。
「夕飯、まだだったよな。俺、何か買ってくるよ」
「……私……いらない」
やっと口にした言葉がそれだ。瑞穂は幽霊のようスーッと寝室の方に消えていった。正直言うと、俺も食欲などなかった。
俺は上着を脱ぎ捨てると、そのままソファに倒れ込んでしまった。
*
翌日、依知佳の入院用の必要物品を準備した後、職場にお休みの連絡を入れた。分かってはいたけど、あのオバハン課長は微妙な返答をしてきた。そして、依知佳の容態などまったく気にかける様子もなく、
「とにかく、業務が溜まっています。出られるようになったら早めに出勤してください」
「……分かりました。ご迷惑をお掛けします」
相変わらずの平常運転。もう俺は職場に何も期待はしないし、何の意思も向けられない。
俺は職場への意識を断ち、寝室に向かった。
「瑞穂……準備できた?」
ドアを開けると瑞穂の出掛ける準備はできていたようだが、俯いたままで反応はなかった。
「俺、車出して下で待ってるから」
憔悴しきっている。きっと瑞穂も眠れなかったのだろう。俺は瑞穂の返答を待たずに家を出た。
病院に向かう途中、俺が運転する車内は沈黙に包まれていた。久しぶりに2人きりになれて、話したいことはたくさんあったのに、何も言葉にはならなかった。
病院に着くと、すでに依知佳は一般病棟に移っていた。小児病棟は雰囲気が柔らかく、装飾なども可愛らしく飾られている。
依知佳は4人部屋の窓側のベッドだった。上半身を起こして、ぼーっと窓の外を見ていた。
意識がある。ちゃんと起きている!
それだけでも嬉しかったが、頭と腕は痛々しく包帯で覆われていた。
「依知佳ッ!」
俺は無意識に駆け寄っていた。
依知佳の細い肩に手を置いて、ギュッと抱きしめたい衝動を抑えた。
「パパ、ママ……」
「大丈夫か?!怖かったよな?痛かったよな?でももう大丈夫だから!先生も大丈夫だって言ってたんだ」
自分でも何を言っているのか分からないくらい早口でそう捲し立てた。
「……うん、少し頭が痛いけど、大丈夫だよ……」
「良かった……本当に……」
それ以上の言葉は紡げない。
瑞穂はというと、病室の前で立ちすくんだまま俯いていた。
「瑞穂、どうした?依知佳に声を掛けてあげろよ」
相変わらずの無反応ぶりに、さすがに違和感を覚えた。
「……さい」
「ん?なんだって?」
「……めんなさい……」
消え入るような小さな声で、瑞穂はそう呟いた。
なんで謝るんだよ……瑞穂のせいじゃないだろう……
「ママ……」
依知佳が両手を広げて瑞穂を呼び込んだ。
瑞穂は一歩ずつゆっくりと依知佳に近づくと、ベッドの柵を掴んだままその場で泣き崩れてしまった。
「ごめんなさい!ごめんなさい――」
依知佳は何も言わずに母親の頭を優しく撫でるだけだった。
瑞穂が落ち着くまで俺は病室を出ることにした。昨夜未完了だった手続きを終わらせるためだ。
しかしこの病院の独特の匂いは慣れないものだな。ここが病院だということが目を瞑っていても分かる。
午後には依知佳の検査に付き添った。病院からの説明では、今のところ後遺症と思われるような症状は見当たらないという。ただし、頭を打っているので今後何かしらの影響があるかもしれないとのことだった。
依知佳の将来のことを考えると恐怖をおぼえるが、とにかく今は元気になってもらうことが最優先だろう。
そうこうしているうちに夕方になり、病棟も薄暗くなってきた。依知佳の病室に戻ると、検査で疲れたのか依知佳は眠ってしまったようだった。瑞穂も落ち着いたのか、ベッドの横にある椅子に座っている。
「終わったよ。今日はもう帰ろうか……」
返答は期待していないけどそう言ってみた。
「……ごめんなさい、私どうしてもやらなきゃいけないことがあって……今日は帰れない」
またそんなことを言う……なぜどうしてと聞くとまた疲れてしまうから俺は、
「そうか」
と答えてそれ以上は何も聞かなかった。
「……その前に、あなたに伝えなきゃいけないことがあるの……ここじゃ言えないから場所を変えていい?」
「?……いいけど……」
なんだろう。想像がつかないな。でも本当に久しぶりに瑞穂からこうやって声を掛けられた。
俺は瑞穂に促されるまま誰もいない談話室に向かった。
談話室は薄暗く、窓からの斜陽が怪しく瑞穂を照らしていた。瑞穂は相変わらず俯いており、無表情で感情が読めない。
「結論から言うわ。……離婚してほしい」
「え……」
なんて?今なんて言った?リコン?リコンってなんだ?
「共有の資産も親権も全部あなたに譲る。マンションも私が出ていくから……」
「何を……何を言ってるんだ……?資産?親権?意味が分からないよ!分かるように説明してくれ!」
息が詰まって苦しい。冷や汗が滲む。
視界までぼやけてきた。
――いや、俺は気付いていたんじゃないか?いつかこんな日が来ることを。
それが俺からか瑞穂からかの違いで、そんな未来が来ることを分かっていたのではなかろうか……?
それを認識した瞬間、世界がガラスが割れたように瓦解した。
それと同時に急激に頭が冴えて、冷静さが戻ってきた。いや違う。正確にいうと冷静になったわけではなく、スンッと感情が削ぎ落ちてしまったのだ。
「一応、理由を聞いても?」
「…………好きな人ができた」
「それは……依知佳より大切な人か?」
「依知佳より大切な人なんかいない……!」
依知佳がこんな状態なのを棚に上げてよく言う。今両親が別々になることで依知佳が何を感じるのか想像できないわけじゃないだろう。
だが……今そのことを瑞穂に言ったところで納得のいく答えなんか出ないだろう。これまでの瑞穂の態度を見ていれば分かる。
「……依知佳が事故に遭ったと聞いた時、私はお相手の男の人と一緒にいた……こんな母親……母親である資格なんか、ない」
ああ、そういうことか。
「私はあなたや依知佳から目を逸らし、逃げて、逃げて……自分を優先した……もう元には戻れない」
「それでいて、よく依知佳より大切な人なんかいないなんて言えるな」
「………………」
ダンマリか。そりゃ反論なんかできないか。
これ以上の議論の余地はないだろう。思い返せば、これまでの瑞穂の態度からしても腑に落ちる点はある。そう告白されても、今はなぜか怒りや悲しみの感情が湧き起こらない。これもやっぱりある程度想像できてたのかもしれないな。
あるのは虚しさだけだ。
なんでこうなっちゃったんだろう。俺だよな。やっぱり俺のせいだよな……
*
その後のことはあまりよく覚えていない。どうやって帰ったかさえも記憶から抜け落ちていた。
気が付けば、俺は自宅マンションの駐車場にいた。
依知佳になんて話そう。
怒るかな。きっと泣くんだろうな。俺たちのこと恨むかもしれない。
依知佳はまだ小さな女の子だ。本当なら母親が一緒の方がいいのだろう。
でも、自ら進んで親であることを放棄する母親になんて任せられるはずがない。
俺は車を降りてエレベーターホールまで行き、7階のボタンを押した。
グラリ……眩暈がした。
あ、ヤバい……そういえば昨日の朝から何も食べてないし、夜も寝ていない。
壁に手をついてなんとかエレベーターから降りたが、足がフラついて通路の縁にもたれかかってしまった。
外はほとんど陽の落ちたグラデーションの空が覆っていて、雲と空が混ざるようにぐにゃりと歪んだ。
……ここから飛び降りたら、明日仕事に行かなくていいんじゃないか……?
理不尽なクレーム対応をしなくて済むな。
月曜日おじさんに会わなくて済むし、あの課長と関わることもなくなる。
それに――
瑞穂との離婚話で今後のこととか悩む必要もなくなるなぁ。
――ああ……なんか全部どうでもよくなってきた……
下を覗き込むと、地面が近づいて来るような錯覚をおぼえる。
気付けば上半身全部、縁から外側に身を乗り出していた。
――ヒョウと風が吹く。
ゴクリッ。
何を考えてんだ俺は……
一瞬、依知佳の笑顔が脳裏をよぎった。
俺がいなくなったら依知佳はどうなる……
さっき落としてきた感情が、色を取り戻した絵画のように甦ってきた。
それと同時に乾いた眦に潤いが戻り、涙となって風に流れて飛ばされていった。
……休もう。食事をしてしっかり寝るんだ。そうすれば、こんな気持ち少しは薄まるだろう。
そう思って身体を起こそうとした時、俺の後ろ側に人の気配を感じた。
ご近所さんかな。変なところ見られてしまった……
――次の瞬間。
グイッと両脚を掴まれると、そのまま持ち上げられ……
「あ……れ……?」
天地が逆さまになった。
ゆっくりと景色が流れる。まるでスローモーションだ。
落ちる、落ちる……
視界を通路の縁に移すと、俺がさっきまでいた場所に誰かの手が見えた。
右手だ。
さらによく見るとその右手の人差し指と親指の付け根に目立つ火傷の痕だろうか、アザがあった。
「……ハート型って……ウケる……」
地面が目の前に迫った時、視界の全部が真っ白になり、雷に当たったかのような衝撃が全身を襲った。
―――――
俺は
死んだ――
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