たとえ神様が僕たちを欲しがったとしても
三国 佐知
第1話 終わりの始まり
「……はい。おっしゃることは分かります。不快な思いをさせてしまったことに対しては謝罪いたします……申し訳ありません……」
そうやって情けなく受話器を握りしめてペコペコ頭を下げているのは俺、[
俺は首都圏某市役所に勤める地方公務員。
俺は今まさに、ストレスで爆発しそうな状態をなんとか保っている。もうギリギリのギリだ。
「ええ、理解しております……この件については……」
はぁ、やっと電話が切れた。
電話のディスプレイを見る。
「101分54秒……」
記録更新だな。
そういや、クレーム対応で昼飯もまだだった。あー腹減っ――
「係長、さっきから例のあのおじさんが係長指名で待ってますよ!」
長い長い電話がやっと切れたというのに、そう間髪入れずに言ってきたのは、俺の部下である平井だ。
平井よ。今までの俺を見ていただろう。自分で何とかしてくれたっていいじゃないか……いや、無理か今のこのメンツじゃ。
「ああ、分かったよ……今行くから」
4月から人事異動で配属された[公聴課]。市民のあらゆる声を市政に届ける重要なセクションだ。と言いたいところだが、業務の多くはインフラや施策、職員の質等々、クレーム対応がほとんど。
周りの職員からは「サウンドバッグ課」なんて揶揄されているくらいだ。
まぁ、対応が難しい市民がいるようにダメダメ職員も存在するので理解はできるのだが。
それにしても……このおじさん、毎週月曜日に欠かさずクレーム言いに来るんだよなぁ。暇なのかな?暇なんだろうな……と、心の中で毒を吐いてても笑顔で対応できてしまう。この部署に来てすぐに身につけてしまったスキル。
そんなこんなで今日もあっという間に終業時間になってしまった。
「お疲れ様っス。先、帰りますね」
「おぅ、じゃぁな平井、おつかれ」
定時帰りか……もう何日もしていない。定時で帰れたのっていつだ?忘れてしまうくらい前だ。
溜まっている報告書と調査物の回答作成。メールを送信して、と。
気付けば夜9時を回っていた。
でもまぁいいか。あの家に帰るのは今は少し息苦しい……
*
ガチャリ。
「……タダイマ」
そっと、そう呟く。
玄関のドアを開けると暗闇が待っていた。
闇を見据えると、思わずホッとしてしまった。
「あいつはもう寝たか……」
俺のストレスの根源のもう一つは、妻である[
瑞穂とはここ半年以上、まともにコミュニケーションが取れていない。
俺が朝起きたらすでに出勤しているし、帰ってきたらこんなふうにもう寝てしまっている。
たまに休みが合っても、
「ごめん、疲れてるから……」
と、倦怠期の旦那さんみたいなセリフが返ってくる。
「倦怠期か……」
好きだとか、愛しているだとかが希薄になるくらい時間が経ち過ぎてしまったのかもしれない。
「……もう、ダメなのか……俺たち」
ボソリと呟いてしまった。
が、
いやいや!ダメだそんなこと思っちゃ。
俺のメンタルがギリギリのギリまで保てているのは、一人娘[
小学4年生になって、突然自分の部屋が欲しいと言ってきて、今では一人で眠れるようになった。
でも、こうやって娘の部屋のドアの隙間からでも、寝顔を見れるだけで幸せを感じられる。
こうやって、毎日が過ぎていく。
職場では意味合いが薄れるくらい謝罪の言葉を連呼し、家では依知佳の寝顔を愛でてから寝る。それだけ。
季節は、いわゆるゴールデンウィークを迎えていた。
*
ピンポーン!
ピンポ
ピンッ
ピピンポーン!!
「……んだよ……っるせぇ」
玄関のチャイムを連打しているヤツがいる。
俺はソファから上半身を起こして、スマホを探す。
「ッて、まだ朝の6時じゃねぇか……」
ブツブツと文句を言いながら玄関に向かおうとすると、
トトトトッ
「はーい!いま開けるからね!」
元気よく娘の依知佳が玄関に走っていった。
「ああ、依知佳ッ。勝手に……」
ガチャリ
「おはよー!」
玄関から元気な声を発してきたのは、依知佳の友達、[
その沙耶香ちゃんの後ろから、沙耶香ちゃんをそのまま大人にしたような女性が入って来た。
「おはよう依知佳ちゃん……お邪魔しまーす……ってあんた、今起きたの?」
俺を見るなりそう言ってきたのは、沙耶香ちゃんの母親[
あかねとは元々実家が隣同士で物心つくかつかないか分からないほど昔からの付き合いだ。いわゆる幼馴染というやつだな。
ちなみに学生時代のほんの一時期に、あかねと付き合っていたことがある。今となっては俺にとって黒歴史そのものであるが……
何の縁だか、同じマンションに住んでいて、家族ぐるみで良い関係を続けさせてもらっている。
「今日、TDLに行くって言ってたでしょう?依知佳ちゃんの出かける準備手伝ってあげたの?」
うぐッ……相変わらず小言が多い。
「大丈夫だ。依知佳はしっかりしてるから」
まったく……とため息をつかれてしまった。
「やぁ、おはよう翔太郎。お邪魔します」
「おう……」
そう声を掛けてきたのは、スマート長身メガネの[
亘はあかねの旦那で、沙耶香ちゃんの父親だ。こいつも中学からの古い付き合いで、まぁ親友といつやつだ。俺は2人のキューピッド的存在だから、もっと丁重な対応をしてくれてもいいのに……
「ゴールデンウィークなのに仕事かぁ。大変だね。翔太郎も一緒に遊びに行ければ良かったのにね」
早朝なのに相変わらずの爽やかイケメンだな。ホントに嫌になる。
「まぁしょうがない。でも明日は休みだから」
休日出勤で、結局連休の半分が潰れてしまった。休日出勤など慣れてしまったが。でも依知佳と過ごせないのはすごく寂しい。
「明日はねぇ、おばあちゃんの家に遊びに行くんだー」
嬉しそうに依知佳が言う。
依知佳と過ごせる貴重な時間だ。
「翔太郎、あなたクマができてるわよ。ちゃんと休めてるの?」
まるでオカンのようなことを言うあかね。
「実家に行くなら、依知佳ちゃんを預けて翔太郎は休んでいたらいいんじゃないかな?」
と、亘。ありがたいことに2人は俺を気遣ってくれているらしい。でも俺には譲れない理由があるんだ。
「……いや、ほら、俺、父親がいないだろ。それなりに寂しい思いをしたんだ。だから依知佳には同じ思いはしてほしくないなって。一緒に過ごせる時にはできるだけ一緒にいたいんだ」
そう、俺には父親がいない。
俺が高校2年生の時に死んでしまった。事故だった。
今はほとんど喪失感だとかは薄れてきているけど、亘たちに言った言葉は嘘じゃない。今こうやって普通に父親のことが話せるようになったのも、周りの友人知人たちに支えらたからだ。
そう言ったら、亘もあかねも何も言わなくなってしまった。
「そういや依知佳、ママはどこだ?」
今気づいたが、妻の瑞穂の姿が見えない。
「ママはもうお仕事に行ったよ?」
え、まだ朝の6時過ぎだぞ?
どんだけ社畜なんだよ……
「さっき会ったよ。今日はよろしくって言われたよ。夫婦揃って忙しいんだな。本当に身体気を付けろよ」
そうなんだ……瑞穂のやつ、亘たちとは普通に話すんだな。
「そういえば、この間、瑞穂ちゃん大宮駅で見かけたわよ。一昨日だったかな?雨降ってたし急いでるみたいだから声は掛けなかったけど。瑞穂ちゃんにも体調に気を付けるよう言っておいてね」
「あ、あぁ」
素っ気ない返答になってしまった。
しかし違和感が残る。
大宮?あいつの職場は確か赤羽だよな……真逆じゃないか。瑞穂は派遣社員だから日によって職場が変わることもあるのだろうか……
「じゃあ行ってくるね。お土産買ってくるから」
「ああ、悪いな。依知佳のことよろしく頼むわ。沙耶香ちゃんも、依知佳のことお願いね」
「うん!」
元気な声が返ってきた。
「じゃぁパパ、いってきます」
笑顔そう言って依知佳は沙耶香ちゃんと一緒に手を繋いで出掛けて行った。
本当仲が良いな、あの2人。沙耶香ちゃんがいなかったら依知佳はまともに学校さえ行けなかっただろう。
依知佳は極度の人見知りで、友達を上手に作れないタイプだった。だけど亘たちがこのマンションに引っ越して来て、沙耶香ちゃんと一緒に登校するようになってから、依知佳は変わった。クラスの輪の中に入れるようになったみたいだし、他に友達もできたと言っていた。
本当にありがたいと思っている。
*
あっという間に休みの日は過ぎっていった。
そして、今こうやって椅子に座ってカウンター越しにクレマーから暴言の嵐に必死に耐えている。
「いいか!分かったか!この税金泥棒どもがッ!」
やっと終わった……
フラフラと自席に戻ろうとすると、いつものごとく間髪入れずにヤツが近寄ってきた。
「係長、係長!課長が呼んでましたよ!」
平井だ。
「えぇ、今、月曜日おじさんの話終わったばっかなのに……」
「なんか怒ってるぽかったです」
はぁ、思わずため息が漏れた。
あのオバハン、未だに慣れなくて苦手なんだよな。
課長席の前まで行くと、いつもように仏頂面の不機嫌な顔が俺を睨みつけていた。
「佐伯係長、どういうつもりですか。公用の電話をプライベートなことに使うなんて」
何を言ってるんだ、このオバハン……
「あなたのご家族を名乗る方から、佐伯係長を出してほしいと連絡がありました。市役所の電話を使うなんて……非常識ではないですかッ?」
いろいろと突っ込みたいことはあるがまぁいい。
「はぁ、それはスミマセン。で、要件は何だったんですか?」
「市役所の電話でプライベートなことを聞けるわけないでしょ?!何を言ってるのあなた。だいたい、いくら市民の方だからといって、面談の時間が長すぎです。仕事の管理、ちゃんとできてますか?!」
だったらお前が月曜日おじさんの話し相手になってやれよ。と言いたいところだか、ここはグッと我慢。
もういいや、スマホ確認しよ。
俺はペコリと頭を下げてさっさと課長席から去った。
カバンからスマホを取り出す。
「なんじゃこりゃ……」
着信履歴が妻の瑞穂で埋まっていた。これは尋常ではない。
「もしもし、瑞穂か?どうした?」
「……なんで、電話出てくれないの……」
泣いてる……?
本当にただ事ではない状態だ。嫌な予感がする。
「わ、悪かった。で、どうしたんだ?何かあった?」
泣きながら、途切れ途切れ話す瑞穂の話の内容に頭が追いつけないでいた。
「……依知佳が……事故……救急車で搬送……」
どうして?なんでそんなことに?!
「何度も電話したんだよ?職場にかけて事情を話しても全然取り次いでくれないし」
「くッ……ごめん、病院はどこだ?!容態は?!」
「市立病院……ごめん、先生が呼んでる……プツッ」
「あ、おい?!」
どうなってる?!
不安で胸が潰れそうだ……
こうしてはいられない。
「すみません課長、早退させてもらいます。娘が事故に遭ったみたいで。病院に行かなくちゃ……」
課長は始めギョッとした顔をしたがすぐに元の仏頂面に戻った。
「そんな、突然言われても……そ、それにこの後の会議どうするの?あなたが担当でしょう?あなたが病院に行ったところで娘さんの状態が変わるわけじゃないんだし……」
正気かこのババア……
いや、今はそんなことどうでもいい。
「休みは私の権利ですので。それでは」
「あ、ちょ、ちょっと!」
俺は課長の言葉を遮って帰り支度を始めた。
「係長、後は俺に任せてく早く行ってあげてください」
「平井……すまない。頼む」
平井のやつ、こういう時に頼りになるんだな。心の中で平井に感謝しつつ、俺はタクシー乗り場へ走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます